追憶のハイウェイ第三京浜

 あの日の朝。たしか8時ぐらいだった。
 2階建てアミューズメント施設の屋上に機材車を停めて、さらに機材車の屋根に三脚を据えて、地上にいる出演者や着ぐるみが「たいそう」をしている様子を俯瞰撮りしていた。
 カメラマンの足場は狭く、少し風が吹けば三脚が揺れる。機材車のてっぺんから地上まで、10メートルはあるだろう。
「揺れで落ちないように気をつけてくださいね」
 僕は言った。たしか8時ぐらいだった。あの日の朝の。
 横浜は異様なまでの快晴だった。遥か前方、青空と都市が接する際には、まるで焦げているかのような「濃い青」が望めた。
 朝からはじまった撮影は順調に進み、昼食をはさんで午後もなお続けられた。
 弁当を食べ終わって、僕は猛烈な眠気に襲われていた。今夜はできれば早めに帰りたい。そして寝たい。それにしてもすごい青空だな今日は。そんなことを考えていた。
 ADが地べたに膝をつき、プロッキーでスケッチブックにカンペを書いている。
「もう少々お待ちくださーい」
 出演者に僕は言った。たぶん2時46分ごろだった。あの日の午後の。
 不意にADの書く文字が蛇行しはじめたのだった。
 ぐにょりぐにょり。ぐにょぐにょぐにょり。
 ぐにょりぐにょり。ぐにょぐにょ、ぐにょぐにょ。ぐにょりぐにょりぐにょり。
 しばらくスケッチブックを眺めてから、蛇行の「からくり」を、僕は解釈する。 
 その時、ADが握るプロッキーは「地面に動かされていた」。
 揺れていた。ゆるく、けだるく、もそーっとした感じで。地面が揺れていた。


 
 冬が苦手だ。それで、3月のこの時季からはっきりと気候が暖かくなるまで果たしてどれぐらいだろうと時間の感覚に目安をたてようと試みるのだけれど、うまくできない。
 去年の3月11日を過ぎてから、春までに流れていた時間があまりにも異常で、うまく参照して感覚に落とし込むことができない。
 東日本大震災直後の日々の記憶は、時系列もランダムに、まるで悪夢を題材にしたコラージュ絵のように心に残っている。
 編集の合間に弁当を食べながら見た、会社のテレビで流れる映像はどれもこれも「奇異」だった。
 自衛隊の大型ヘリコプターが何機か飛んで、「せーの」で爆発した原発に向かって水をバラ撒いていた。
 建物がほとんど水に浸った病院の屋上で、看護師たちが大きく「SOS」とコンクリートに書いて、ヘリコプターで撮影しているテレビカメラに手をふっていた。
 多くの報道番組には、原発の専門家たちがおしなべて出演し「そんなに恐れないで大丈夫です」といったニュアンスのことを繰り返し言っていた。
 絶望が、混沌が、あらゆる「過剰な奇異をはらんだ現実」が、放送されていた。
 流れる映像に「意味」は、あるいは「意味を含む余白」はなかった。それらはすべてが受け入れざるを得ない現実であり、すべてが笑えない冗談のようにも映った。
 ぐにょりぐにょりと、日本が、日本にいる僕が、言葉の追いつかない世界に呑み込まれていった。ぐにょりぐにょりと、時間の感覚がねじまがっていった。次第に、由来の知れない極度の疲れが僕たちを包んだ。
 僕は「被災地にいなかった」のに、「ずっと圧倒されていた」。震災から1週間も過ぎれば、くたくたになっていた。
 およそ365日が経って、その疲れはとれた。現在、「完全なる安心感」もないが、あの頃のような危機感もない。要するに、「馴れた」。
 時間の感覚がねじまがったあの頃の自分の気持ちを、うまく思い出すことができない。たかだか1年ほどしか経っていないのに、あの頃について、リアリティーが持てない。
 あの頃、自分が住んでいる国について多くのことを知った。
 言い換えれば、自分が住んでいる国について、大部分を知らなかった。
 島国であることも、地震が頻繁に起きる地形・地域であることも、普段の電気の多くを原子力に頼っていることも、海が悪魔に化けることも、面白いCMを流している企業が面白くないことも、なんだかもう、わけわかんなくなっちゃうよってぐらい多くのこと、膨大なことを、僕は何も「知らなかった」。
 流れるニュースは、濃度を薄め、絶望を散らし、「過剰」と「奇異」を排除して「それ」を伝えていくだろう。
 あの日あの時、「プロッキーが地面に動かされて」たしかな言葉を見失ったまま、ぐにょりぐにょりと365日が過ぎた。ぐにょりぐにょり。ぐにょりぐにょり。言葉はどこだ。リアリティーはどこだ。ぐにょりぐにょり。まだたくさんどん底の気分の人たちがいるはずなのに。ぐにょりぐにょり。何も知らないあの頃に戻されていく。ぐにょりぐにょり。ぐにょりぐにょりぐにょり。



 横浜の撮影は中断されて、何人かのスタッフと僕の車で東京を目指した。
 おそらく電車が止まっているのか、歩道を歩いている人がけっこういて、道路は渋滞していた。
「どうせ夜には電車も再開されるんでしょ」
 そんなことを車内で誰かが言った。
 横浜からだらだらと車を走らせながら、いつもと違う街の光景に少しはしゃいでいる僕たちがいた。
 僕たちはまだ知らなかった。自宅にたどり着くのが深夜になるということも。途中立ち寄るコンビニにほとんど商品がないということも。
 地震が起きて大部分の高速道路が封鎖されたようだが、第三京浜だけは、まだ走れるという情報が入った。
「おー! あいてるあいてる!」
「すいてるじゃん! ラッキー」
 そんな風に言いながら、第三京浜に乗って上野毛までを順調に駆け抜けた。
 あの日の日暮れ時。第三京浜。それは快適なスピードだった。焦げるような青空はすっかりなくなって、夕日も霞んでいたが、フロントガラスから見える景色は「日常的」だった。
 高速を抜けて早く東京にたどりつきたい。家に帰りたい。僕はそればかりを考えていた。
「運転させちゃってすみません」
「いいですいいです。どうせ同じ方向なんですから」
「車で来てくれててほんと助かりましたよ」
「たまたま今日は車で来てて。ラッキーでしたね」
「ほんとラッキーでしたね」
 あの日、第三京浜を走っている僕は何も知らなかった。その頃、たくさんの人たちが海にのまれていったことも。燃料棒が溶けていたことも。
 僕は何も知らなかった。