たけしさんの夢

 俺は自転車を漕いでいた。子供の頃から数百、数千回と通ったはずのその歩道には、まったりとした温和な陽光が射し、街路樹によるものか、それとも信号機や電柱のせいなのか、時折影が頭上をよぎった。
 視界に映る景観からして、この季節が春の真ん中か秋の始まりと推定することが出来た。だが、そのどちらであるのかをはっきりと判別することは難しい。季節がどうあれ、確かなのは、俺が警察官でありパトロール中であるということだった。
 自転車を漕ぐ速度が少し早かったかなと気にかかり、ふと後ろを振り返ると、たけしさんはちゃんとついて来てくれていた。
 やや前屈みに自転車を漕ぐ制服姿のたけしさんはまるで息が上がっていない様子で、安心すると同時に、その強壮ぶりに感服もした。俺の両親よりもたけしさんは年長のはずだから、既に六十を超えているには違いないのだが、自転車を漕ぐ姿に年齢相応のくたびれたものは一切感じられない。精気みなぎるその漕ぎ姿は、世間から遊離した芸能の世界で長らく自らを人目に晒し続けてきた、たけしさんの人生を物語っているようだった。
 子供の頃、テレビでタケチャンマンを見た記憶はあるのだが、さほど明瞭ではない。それに較べて「たけし城」や「元気が出るテレビ」であれば、いくつもの場面を鮮やかに思い出すことができるし、竹下通りの路地にあったグッズショップには何度も訪れた。「たけしが大変な事故に遭っちゃったのよ」と言う母親のけたたましい声に起こされたのは中学の頃。約二カ月後の退院会見の凄まじさは、中学生の脳内で処理できる映像としての限界値を優に振り切っていた。そのトラウマが消える間もない数年後、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したというニュースに、高校生の俺は激しく昂奮させられ、映画館で初めて北野映画を鑑賞した。
 そしていま、俺を追走してたけしさんが自転車を漕いでいる。ペダルを踏んでいる両脚はやはりどこかガニ股であるし、それを見れば抑えがたい高揚が沸いた。



 俺が勤務している警察署にたけしさんが署員としてやって来るという噂が出始めた時、当然真に受け止めようとする者など一人もいなかった。だが、日が経ってもその噂は潰えず、俺も含めた署員たち全員にざわめきが絶えなかったので、いよいよ箝口令が解かれ、ある日の朝礼で上司から正式な発表が為された。
 上司曰く、たけしさんご本人たっての希望で、随分と前から代理人による再三の懇願があり、本庁とも秘密裏に体勢を整えていった結果、署員として受け入れることに至ったのだと云う。たけしさんの志望理由として、これまでビートたけし北野武という二つの名義を使い分けて生きてきたが、どうにもその二つの人格に依ってだけでは埋めようのない自身の存在に煩悶するところがあったらしく、第三の生として警察官としての職務に従事したいとのことだった。
 そのため、警察業務の際には「北野たけし」という名称を使用するということが通達された。本名以外の表記が登用されることは異例だったが、上層部も含め誰も異議を唱える者はいない。また、たけしさんが警察署に勤務していることは、決して口外してはならないし、一切タレント扱いしてもならないと厳命された。
 緊迫した朝礼が終わると、同僚のうちの一人が
「お願いしたらコマネチとかやってくれるのかなあ」
と、いかにも陳腐な着想の戯れ言をほざいた。
 そして数日が経ち、たけしさんは現れた。
 朝、上司の後に続いて俺たちのいる署内の一室に入って来たたけしさんは、猫背でうつむいたまま照れ笑いを浮かべて後ろで手を組んでいる。
 全員の前に上司と並んで立ったたけしさんから簡単な挨拶があったが、喋り口は極端に謙虚で声も小さく、仔細までを聞き取ることができなかった。
 朝礼が終われば俺は午前中のパトロールへ向かうことになっていたが、上司の計らいでたけしさんも同行することになった。



 パトロールしているエリアの一角にある公団住宅で俺が自転車を停めて降りると、たけしさんもそれに倣った。
「このまえ、ここで一人暮らしをしてるおばあちゃんから空き巣に入られたという通報があって。結局、そのおばあちゃんの勘違いだったんですけど、念のため伺いたいとおもいます」
「ああ、ええ」
 たけしさんが、ぼんやりとした声で返事をする。
 四階建ての公団住宅は、のっぺりとした横幅が長い造りで、一階の左右に出入口があり、中央に階段がある。かつてここには、俺が小学校の時に通っていた塾の友達である渡辺君が住んでいたが、最近は住人の高齢化が進み、空き部屋も多いようだ。はっきりとは確かめていないものの、渡辺君がもうここに住んでいないということは明らかだった。
「ここらへん、ほとんど僕の地元なんですよ」
「ああ、そうなんですか。いいですね、静かで」
「たけしさん、足立区ですよね」
「あ、そうです。足立区のね、北千住ってところで」
 たけしさんは鼻の頭を人差し指の関節で撫でながら親切に答えてくれたのだが、あらかじめ俺が出自を知っていることについて、不快な思いはされなかっただろうか。ついつい出過ぎた真似をしてしまったと、自責の思いがこみ上げる。
 出入口から、正方形の取っ手の付いたガラスの押し戸を開けて中へ入れば、セメントの廊下を挟んで左右対称に部屋が連なっている。例のおばあちゃんは一階に住んでおり、右側の並び、手前から四つ目の部屋に暮らしている。
「ここです」
と、たけしさんに告げてからベルを鳴らしたのだが中からの反応はない。声を出して部屋の中に呼びかけてみても一向に返答はなく、だが、普段滅多に外出することのないおばあちゃんだったので、即座に留守と判断して引き返すには、若干の引っ掛かるものがあった。
 ふと、いま入って来たのと逆側の出入口の向こうに共同の庭のようなものがあることに思い当り、そういえば以前もそこで水遣りをしているおばあちゃんに遭遇したことがあった。
「たけしさん、すいません。僕、向こうの庭見てくるんでここにいてもらっていいですか」と頼み
「ええ、はい。どうぞ」と、たけしさんがつぶやくと、俺は逆側の出入口へ向かった。
 廊下の半ばを過ぎたあたりで、俺はガラス扉の向こうに紫色の派手なシャツを着た男の姿があることに気がついた。男の顔は薬師寺保栄デビッド・ボウイの両人を想起させる、どこか性別不詳の様相だったが、かつて出会ったことがあったのか、俺はその顔を見るなり既視感を煽られた。
 次の瞬間、その男が先日起きた殺傷事件の指名手配犯であることに閃いた俺は、ぶるっと体を震わせた。
 俺は踵を返し、たけしさんの元へと駆け寄っていく。
「たけしさん、隠れて」と、犯人に悟られぬほどの声で、手の平を外側に寄せるようなジェスチャーを取りながら示すと、勘の鋭いたけしさんは、すぐさま中央にある階段の窪みに身を潜ませた。
 慌てふためきながら俺もそこに身を忍ばせたが、あの男は俺に気がついたのか、いないのか。
「たけしさん、向こう側のドアのところにいる男、こないだ起きた殺人事件の犯人なんです」
「え?」
 するとふいにたけしさんの目つきは鋭くなり、神妙に眉間を力ませた。
「逮捕、するんですか」
「いや、もしかしたら何か武器を所持している可能性もあるんで応援を呼ばないと……」
 俺がたじろぎながら肩に架かったトランシーバーを取ろうとすると、たけしさんは階段の窪みから僅かに顔を出し、向こうにいる男を確かめているようだった。
「こちらパトロール中のコヤマ、誰か取れますか?」
 早口で俺はトランシーバーに話しかけるのだが応答がない。
「もしもし、こちらコヤマ、誰か取れますか?」
 俺の鼓動は早まり続け、「誰か、誰か」と、つんのめった声が口をついて出る。すると、たけしさんが
「おいら、ちょっと行ってきます」
と、突如廊下に飛び出し、犯人のいる方角へと走り出した。
 慌てた俺は階段から上半身を突き出し、たけしさんを止めようと腕を伸ばすのだが、思いの外たけしさんの勢いは早く、到底届きそうにない。
 たけしさんの大きな背中は獰猛で、俺は、雪が舞う海っぺりの町をたけしさんが暴れながら走りまくる「夜叉」の1シーンを思い起こしていた。
 突進するたけしさんの向こう、扉の外にいた犯人は走り来る警察官に気がつき、ドアを開けて団地へと入って来たのだが、突き出した右手には握られているものがあり、それは拳銃だった。
 そして、鼓膜が破裂するかのような銃声が公団住宅に轟く。
 真正面から拳銃をぶっ放されたたけしさんは、両手を広げ上半身をのけ反らせながら、背中を打ちつけるようにコンクリートの床に倒れ込んだ。
 それを一瞥した犯人は不敵に笑い、さらに俺と目が合うと睨み付け、そのまま去って行った。
「たけしさーん!」
 大の字で仰向けに伏したたけしさんの元へ俺は走り寄っていく。
「たけしさん、大丈夫ですか。たけしさん!」
 両肩を掴み上半身を揺らすが、たけしさんの着る卸し立ての制服には胸元から朱色が滲み、徐々に広がっていく。
 ゆっくりと目を開けたたけしさんは、かすれた声で
「すみません、勝手な真似しちゃって」
と詫び、照れ笑いを浮かべた。
 銃弾は心臓に直撃しているだろう。なのにたけしさんは、痛がることもなく見るからに平静を保っている風で、死の間際にして異常とも呼べるその豪胆な態度は「たけしだから」という言葉でしか説明がつかないように思えた。
 両腕でたけしさんの背中を支えながら、
「いま救急車呼びますから」と俺は言ったのだが
「呼ばなくていいよ。ここに当たっちゃったら、どうせダメだよ」
と、たけしさんは苦々しく笑いながら、すでにはっきりと諦めているようだった。
 仮にここで俺が救急車を呼んだら、事はたちまち甚大な騒ぎと化すであろう。ただ一人の警察官が撃たれたというレベルの騒ぎで済むはずがない。日本全土を巻き込んだ騒ぎになるのは必至だし、おそらく国外にも報道は流れるだろう。そんな事態が巻き起こった際、有象無象の関心の的として注視されるのはただ一人、今日から警察官としての人生を歩み出したたけしさんなのだ。たけしさんが味わうことになる恥ずかしさや気まずさを思えば、俺は救急車を呼ぶことに退行的な気分にならざるを得なかった。
 容態に刺激を与えないよう、俺はなるべく声のトーンを落として
「奥さんとか、電話しましょうか」と訊いたのだが、
「カミさんは、いいよ」と、たけしさんは首を振る。
「軍団のどなたかとか……もし伝える必要があれば……」
「あいつらも、いいよ」
 俺はこれまでに何度も、たけしさんが自らの死について言及しているのをテレビや雑誌で目にしたことがある。「芸人なんだから、死に方はくだらないのがいい」などといった類いの発言をよくされていた。だとしたらこの死にざまは、どれぐらい理想に叶ったものなのだろうか。今日から警察官となり、初日のパトロールでいきなり撃たれたというのは、どれぐらいくだらないだろうか。芸人らしいだろうか。
 おそらくこの死に方を世間は笑わないだろう。むしろ、ここまでのキャリアにありながら、密かに警察官として生きようとしていたたけしさんの哲学に様々な分析や言説が飛び交い、特殊な生を指向した天才の感動譚として大仰に語られていくだろう。俺にはそれが悲しく思えた。
 すると、俺とたけしさんの傍らに、DVDデッキとプロジェクターが置かれていることに気がついた。いつのまにか、壁には家庭用のスクリーンまで吊るされている。何の疑問も抱かず、俺はデッキの再生ボタンを押した。
 やがてすぐに「I’ll be back again…いつかは」が流れ始め、黒い背景に白い明朝文字の名前がスクロールしていく。どうやらこれは、映画のエンドロールのようだ。
 「ビートたけし」からはじまって「岸本加代子」「大杉漣」「寺島進」など、いわゆる北野組の常連俳優の名前が流れていくスクリーンを、俺の腕に凭れたたけしさんは、柔らかな表情で見つめていた。
 「柳憂怜」「芦川誠」「モロ師岡」………さらに何人かの名前が流れ、キャストの名前が終わったところで、外国の映画監督らしき誰かと、たけしさんのツーショット写真が映された。
「ああ、ヴェンダースさんだぁ…」
 たけしさんの声はか細く、しかし思い出の美しい一片を噛みしめているようだった。
 その後も、黒澤明今村昌平深作欣二大島渚といった名だたる日本人監督や、さらに世界各国の映画監督とたけしさんが並んで写る写真が次々に映写され、たけしさんは、ぼーっとそれを眺めている。
 連続して映されてきた写真が途絶え、俺は間もなくエンドロールが終わるのを予感する。そして、おそらく最後は、「監督 北野武」で終わるのだろうと。
 だが、最後に現れた名前は、俺が特に好きっていうわけでもない日本人映画監督の名前で、せっかくたけしづくめの夢が見れたのに何だかなあという、いやはや締まりの悪い感じで目を覚ましたのでした。