別の感情 (1/3)

【サイヤクの宴】sideB-3

【出張帰りは一緒に寝ようね/フトンにうんちをもらしちゃイヤよ/hey hey heyフレンチブルドッグ
 焼け跡から、こんなネタ帳の切れ端が出てきた。曲作りのアイデアの一端だ。
 タイトルは『ヘイ、フレンチブルドッグ』。ビートルズの『Hey Bulldog』のパロディのつもりで、部屋で飲みながら適当に構想していた。
 火事に遭う一年と少し前から、ウチでは雄のフレンチブルドッグ・チッタを飼っていた。チッタとは(イタリア語だろうか)「撮影所」を意味する。オトンとオカンがかなりの頻度で映画を観に訪れる、川崎はチネチッタのペットショップで、チッタと両親は出会った。
 オカンと誕生日が一緒だったこと。そして他の犬に比べてだいぶ長い間買い手がつかず、ケージの中で子犬たちに乗っかられて圧倒されていた状態が愛おしかったようで、両親はチッタを家族として見初めた。
 臆病で内弁慶なチッタの表情はすぐに優しさを帯びていき、どんどんと僕たち3人に甘えだすようになっていった。多くの夜は、一番帰りが遅い僕の布団で一緒に眠った。ロケなどでしばらく家に帰れないと、どうしようもなく普段横で眠るチッタが恋しくなり、それを目的化させて東京に帰れるまでの幾日かを踏んばったりもした。
 小柄な体躯で甘えん坊の愛の存在は、歌の対象としてすぐに浮かんだ。酔っ払った頭で『ヘイ、フレンチブルドッグ』というタイトルを思いつき、歌詞を少しだけノートにとった。
 この歌についてノートをとっている時―――この歌に限らず、何か思いついたアイデアをあの家の自分の部屋で書きとめている時、たいてい膝の上にはチッタがいた。
 あいつは、僕が膝にギターを乗せて自分が座れない状態だと、すごく疎ましい表情でこちらを見つめた。その表情といったらズルいほどで、いつもその恨めしい表情に根負けしてギターを下ろしてチッタを膝に乗せた。
 右手にペン。左手はチッタの柔らかな感触とお酒の入ったコップを行ったり来たり。妄想が具現することへの夢想とアルコール、そしてチッタの感触が交叉する。そんな夜が幸せだった。
 しかし、いつか曲にしようと思っていた『ヘイ、フレンチブルドッグ』が完成されることは、もうない。

 火事の翌日は、朝からオトン・オカン・僕が立ち会いのもと、現場検証がおこなわれた。
 何人いたのかわからないぐらい多くの消防隊員・警察署員がいる中、僕たちは一人ずつ順々に燃えた家の中に呼ばれ、聴取をとられた。目的は当然、火元の特定である。
 真っ暗な家のさまざまな方向に消防隊員・警察署員の目玉が光っている。対話するのは鑑識の親方とおもわれるコワモテの男性ほぼ一人だが、構図としては一対超大勢といった感じで、味わったことのない緊張だった。
 この日の朝まで、僕は前日家を出る前に自分が吸ったタバコのことが不安でならなかった。それが火元だったらどうしよう・犯人が俺だったらどうしよう、というきわめてセコい罪悪感と恐怖を感じていた。なんだか十中八九、火元は自分がぞんざいに消したタバコであるような思い込みに陥っていた。
 だが、朝の時点で消防の人に火元は一階だと聞かされた。一階でタバコを吸う習慣は僕にもオトンにもない。消防の人は言う。「火元が一階であることは間違いないが、一階の何が原因なのかがわからない」。
 それを聞いた時点で、心を支配してきた大きな黒い影が融けていくのをはっきりと感じた。手のひらに乗せた物質が融けていくような具体的な感覚があった。
 その感覚を通過するまで言葉にもしたくなかったが、タバコが火元だったらどうしようという僕の恐怖(おそらくオトンも抱いていたもの)とは、「チッタを殺したのが俺だったらどうしよう」という恐怖に違いなかった。
 一方で、チッタがまだ生きているということを信じなければならないという義務感のようなものも働いていた。
 そう信じるためには、火が家全体に広がっていくさなか、チッタが家の裏手にある崖に飛び出して麓の小学校のグラウンドの校庭まで逃げ切った、とか、校庭に逃げ切ったチッタを小学校の児童が拾ってもうすぐ僕らのもとまで届けに来る、とか、ごくごくわずかな可能性を妄想にまで飛躍させることが必要で、その妄想が狂気に飛び火しないかと自分についての不安もよぎった。
 オトン・オカン・僕、それぞれの聴取からも火元はわからず、明日以降引き続き科学捜査はつづけられるという旨を警察に伝えられてその日の現場検証は閉じられた。
 現場検証が終わって家の道路向かいにセリや両親と立っていると、メガネをかけた年輩の消防隊員が僕を手招きした。昨日(火事当日)チッタを至急探すように、僕が取り乱しながら懇願した隊員だ。
 近づいていくと男性隊員が堅い顔で僕に言う。
「たぶん、わんちゃんが見つかったから」
やっと出てきた「わんちゃん」という言葉に胸がざわつく。そして隊員の言った「たぶん」が気になる。
 普通、誰が見てもわんちゃんは、わんちゃんだろう。「たぶん」て何だ。「わんちゃんが見つかった」ならどうしてそんな強張った顔をしてるんだ。
 僕は、ざわついた気持ちを平らにするために、いろんな予防線を感情に張り巡らせようとする。
「犬種、なんだっけ?」
フレンチブルドッグです」
「茶色?」
茶色ではない。
「黒と白のブチです」
「あ、そう」
消防隊員が腑に落ちない顔を見せる。
「茶色………なんですか?」
「うーん…なんとも言えない」
隊員は口角をやや上げて強張った表情を少しだけ温和にし、おそらく目つきがイッていたであろう僕の緊張をほぐそうとする気遣いを見せた。
 この隊員が僕だけを手招きして呼んだというのはつまり、現場検証で疲弊しているオトンやオカンに対する配慮なのだろう。隊員は、少なくとも家族の中で僕が一番タフだと見込んだ。だとしたらここで泣いてはいけない。絶対に泣いてはいけない。
「わんちゃん入れられるもの、何かあるかな?」
「段ボールならまだあります」
「うん。じゃあそれ用意して。中に来て」
焼けた家の物品整理のために、セリが持ってきてくれた段ボールに僕はガムテープを貼る。ガムテープを貼って箱の形を整えながら今にも涙がこぼれおちそうになる。だけど絶対に泣いてはいけない。この段ボールには、丁寧に、丁寧に、ガムテープを貼らなければならない。一生で一番丁寧に、ガムテープを貼るのだ。泣いてはいけない。もうすぐ会えるんだ。絶対に泣いてはいけない。
 段ボールをしつらえると、細い路地を歩んで焼けた家に向かう。散歩に行く時、いつもチッタは楽しそうにこの道を駆けた。それを思い出さないフリをする。やっともうすぐ会えるんだ。
 焼けた家の中には、メガネの隊員が脚立の隣に、そしてもう一人の隊員が、脚立に乗って突き抜けた二階に身を乗り出すような格好で、何かを探している。
 メガネの隊員が、段ボールを持った僕を手招きする。
 脚立の横まで近づいて行き見上げると、二階に身を乗り出した隊員が、燃え屑をかきわけて何かを掘り出そうとしている。
 脚立の上の隊員は、しばらく燃え屑をかきわけた後、はっきりと何かを掘り当てたようで、そっと、その全体を包むようにつかんで、ゆっくりと、慎重に、待ち構える僕の段ボールへと、チッタを入れた。
 やっと、チッタに会えた。
 一気に涙があふれてどうしようもなくなる。体が震え、段ボールを持つ腕力が萎えそうになるが、落としてはたまらない。やっと会えたんだ。こんなに色が変わってしまったけど、やっと会えたんだ。やっと会えたのに、どうしても涙が止まらない。
 家を出て、路地を過ぎ、通りへ出て、オカンに段ボールを見せ、オカンも一気に泣くが、会話もせぬまま僕は町内会館へと向かう。
 やっとチッタが外へ出られた。冷たくて乾いた空気で満ちた、一月の寒い町へ出られた。もう何も熱くない。だけど救出は、お前の命を救うことは、永遠に叶わない。
 町内会館へ、段ボールに入ったチッタを連れていく。段ボールを座敷に置いて、ウェットティッシュを持ってきて、焦げたチッタの体を拭いてやる。
 体躯はほとんどそのままで、まるで優秀な標本のようだが、体がすっかり焦げていて、表情ははっきりと恐怖、そして悶絶を示している。いろんな表情を見せたチッタがこれまで見せたことのなかった、怒るような表情で、口から舌ベロを突き出している。
 だけどまだ、所々に大好きだったチッタの感触が残っている。クチビルの端、足の付け根、耳のあたりが柔らかい。どんな時でも、この感触がチルアウトを僕にくれた。眠れない夜のざわつく心を、平穏へと導いてくれた。
 それに触れながら、僕は泣く。あまりの大声で、叫ぶような「ごめんね」を繰り返しながら、僕は泣く。