レイ・ユーレイ・レイ

【サイヤクの宴】sideB-1

 あの家ではよく、金縛りにあった。
 ヒカれるんじゃないか、とか、また頭がオカしくなったとおもわれるんじゃないか、と思ってあまり友達や誰かには言わなかったが、あの家で寝る時、かなりの頻度で金縛りにあった。さらに言ってしまえば幽体離脱(のようなもの)にも、よくあった。
 寝ていたのは自分の部屋、滅多にたたむことも干すこともないセンベイよりも薄い布団の上で、だったが、ある時期、真上向きで眠ろうとすると決まって金縛りは訪れるのだった。
 もともと眠るまでに時間を要する僕は、素早く眠りに落ちるための作戦として、まず下半身の力を感覚がなくなるぐらいまで抜き(ふくらはぎを重力に委ねて沈めていく感じで)、やがて腕も脱力させて全身麻痺のような状態をつくる。すると頭からも力みが消えてすーっと眠りに落ちていくのだが、それを繰り返していくうち、癖のように金縛りにあうようになった。
 下半身〜上半身と力を抜いたのに次いで、頭(なのか脳なのか)まで力(というか血の気)がひいていき、その輪郭がわかるような締め付ける感じに襲われる。頭が締め付けられる感じというのは、恐怖、でしかないので目を開けよう、あるいは起き上がろうとするが動けない。一度意図的に抜いてしまった上半身や下半身の力は戻ってこず、さらに頭が締め付けられている怖さにおびえ、戸惑い、蜿々と眠りとは程遠い焦燥感、興奮状態がつづくのだ。
 実際は、このような金縛りと自覚される状態が‘眠っている状態’‘夢見の状態’に近しいのだとネットなどで見聞した。だがこうした金縛りの際、‘夢見’とは明らかに異種の、生々しい身体麻痺の感覚や恐怖感があって、‘縛り’から解放されて目を開けた時には、悪夢から醒めた時とは違った動悸や倦怠感に見舞われてひどく滅入った。
 ただ金縛りというのも、しょっちゅうかかっていれば慣れっこになってしまうもので、手っ取り早く眠りに落ちてしまえるなら金縛り上等!てな具合に恣意的に眠るために金縛りを招き、ちょっとした快感すら覚えながら続けていた時期があった。
 もはや金縛りに恐怖を感じなくなったある日、布団の上でいい具合に頭が締め付けられる感じがやってきて「さあ眠れるぞ」とおもったら、むうーーーーーーーーっと体が宙に浮き上がった。何事かわからないけれど、体が布団からだいぶ浮いている。おいおいおいおい、やべえよやべえぞ、戻らねえと戻りたいよ、おいおいおいおい、どこまで行っちゃうんだよ、やばいってばやばいってば、と動かせない体のまま慌てふためいて混乱していていると天井の手前まで浮かんだところで、すとん!!!!と布団の上の体そのものに自分が戻り、収まった。衝撃の感覚はあるが、痛みはもちろんない。
 こんなことが3日連続ぐらいでつづいた。
 ネットを調べれば、「金縛りについての医学的見地からのフォロー」みたいなものはいくらでもあるのだが、幽体離脱についてのそのようなものはあまりなく、むしろ目立つのは能動的に離脱を志す人たちのコミュニティーみたいなものだった。その神秘性や浮遊感覚に魅了された人たちが主に参加しているのだが、なかなか乗っかりづらい、わからんでもないがどうも共感のしづらいサイトばかりだった。
 毎夜、身に起こる離脱についての不安というのは誰にも相談のしようがなく(医者に相談して即入院なんて絶対ヤだもん)、まずは横向きで寝る。それでも離脱する。ならばコタツで横向きで寝る。それでも離脱する。だったらコタツで横向きで電気やテレビを点けたまま寝る。それでも離脱する。どころかこの時は浮いた体が天井を突き抜け、ブウゥゥゥゥうぉぉおおおおおーーーーーーーーーーーーーーと、すさまじい豪スピードで空中へ、さらには大気圏も超えたどこか真っ暗な闇の空間まで達し、そこからすっこーーーーーーーーーーーーーーーん!!!!と、気を失いかねない落下速度で電気点けっぱなしのまんまコタツに入って横向きで寝ている体に‘戻ってきた’。翌日、心なしか背中が少し痛い気がした。
 この頃から毎日、寝る前に焼酎(/泡盛/ウィスキー)の最低ボトル三分の一は空け、ホラー映画を見まくって何も考えられないぐらい自分を追い込んでから寝る、という躁的アルコーリックな夜の習慣がはじまった。
 眠れない僕を助けてくれたのは、「はらわた」とか「いけにえ」とか「したたり」とか、その類いのスプラッター映画だった。
 ひょんなことがきっかけで主人公たちがイワクツキの屋敷や町に入り込み、想定通り残酷な災厄に見舞われる。きっかけが安直で薄っぺらくても、災厄の度合いが図抜けてエキセントリック!アンビリーバボー!オーマイガー!であれば、鑑賞者としてはオーケー。知性や啓蒙の意図がなければないほど好ましい。とにかく一刻も早くイワクツキの場所でとんでもない災厄に巻き込まれる登場人物たちの肉体や精神が壊れていく有り様を見て、画面の前で震え上がったり、腹を抱えて笑ったりすることで邪念を振りはらい、とっとと眠りにつきたいのだ。
 荒唐無稽で節操無く首や血しぶきがじゃんじゃん飛び散りまくった映画を観た夜ほどあっさり眠れたし、半端に監督の思想や価値体系などが反映されて狂気や恐怖がないがしろにされたホラー映画を観た夜は、眠りにつくまでに時間を要した。眠りにどれだけすんなり落ちていけるかが、イコールその映画の評価に直結した。もちろんグダグダに酔っぱらって映画の途中で寝てしまうことも多かったけれど。


 
 今住んでいるマンスリーマンションは、祖母と父・母・そして僕、の4人が暮らすにはあまりに手狭で、眠れない夜にとれる手だてもあまりなく、なんだかとても疲れる。こうやってキーボードを叩き付けていればなんとなく眠くなりそうな気もするが、妙に覚醒していく感じもあって、さてどうなんだろう。アロマテラピーなんてここには無いし、これからの我が家の住居には存在しづらいものだ。アロマテラピーやお香が家に在ることついて、父の反応を想像するだけでぜったいに、アリエナイアリエナイ。
 火事から一ヶ月強がたち、家族それぞれが仕事やそもそもの生活を再開しているが、従姉妹のユキエちゃんはたまに家の様子をうかがいに来てくれる。
 先週、家で夕飯を食べた帰路、駅まで送る道すがら、高輪で見つけた旨いコーヒー屋に連れていって、今回の件でもうあの土地に住めないことを伝えた。もうあの土地に住めないことについて、悲愴な感慨をいだくことは僕の中で終わっていたし、ユキエちゃんもあっさりとした口ぶりだったが、ユキエちゃんは〈火事のあった(1月)13日が祖父の命日である(5月)13日と符号していること〉を口にした。
 火事の直後から、僕はそのことに気づいていたが(多分父も母も、もしかしたら祖母も気づいていたはずなのだが)身内がそれを口に出すのは初めてだった。家屋の喪失、とか、焼失した家財のリスト、とか、今後について必要な貯蓄、とか、現実の、現実の中でもとりわけ具現に関わるものとひたすら対峙しなければならなかった日々の中では、抽象的なものや根拠のない非存在について口に出すことが憚られたし、だからユキエちゃんがその符号を口に出したとき、「やっぱり気づいてたのか」と変に安心した。
 あの家は大工であった祖父が、ほぼ一人で建てたものだった。そして、祖父はあの家で死んだ唯一の人間だ。その人間の月命日と家が火事で無くなった日がどちらも‘13日’というのは、今も僕の中で淡い気がかりとして、ある。
 単なる偶然と断じるのは容易いし、きっとそうに違いないのだけれど、結局、火元が何か一つに特定されぬまま時間が流れようとしている今、あの日唐突に起こり、暮らしの歴史すべてを燃やして失くしたあの災厄を、「13日だったから」という、非科学的で脆弱な理由で片付けてしまったほうが、僕にとっては合点がいくのだ。
 家族の誰かの行動によって、とか、家の中にあった物によって、ではなく、ひどく幽霊めいた何かによって、であるほうが腑に落ちるというか、畏れおののくほど巨大すぎる事実を事実と見なすことが楽にできるように思えるのだ。
 あの家でよく金縛りや幽体離脱(のようなもの)にあった頃、どうしてそのようなことが起こるのか、憶測してみたりもしたが‘お化けのような概念’がすぐに浮かんで、くだらない気がしたのでやめた。最近また、どうしてあの家でよく金縛りや幽体離脱(のようなもの)にあったのかを、たまに考えている。あの家がイワクツキであったのならば、それはひどく愛しく、だけどそうであればやがて忘れられるような気もする。
 今住んでいるマンスリーマンションは全面フローリングで、僕はリビングに布団を敷いて寝ている。一定の期間、毎日フローリングで寝起きするのは初めてで、慣れないからだろう、起きると必ず体のどこかがこわばっていて、痛い。布団は新品なのに、毎日必ず、どこかが痛い。ここのところ毎朝感じる、そんなちょっとした体の痛みのほうが、僕にとっては金縛りや幽体離脱より、よほど不快だし憂鬱と感じるのだ。