ダサい覚醒

 いよいよ生え際の部分からたしかにハゲが始まった気がしてならない。
 徹夜明けなど一目リョーゼン、これはもうぜったいに「分け目」とも呼べないような奥行きと落ち武者感が生え際のあたりを支配している。
 生え際に加えて徹夜明けでここのところヤバいのは口の中だ。
 いわゆる歯槽ノウロウだろうか、歯ぐきがユルくなり下の前歯がぐらぐらしてたよりない。
 おそらく大量の喫煙とのど飴やコーヒーなど原因は複数だが、ちょっと口臭がヤバいのであわてて薬局などで歯ぐきに直接塗れるナンコウ(600円程度の)を買うことが年末から数回。
 どっぷりと過労に見舞われトイレの鏡の前で口の中に指をつっこみ奥の歯ぐきにナンコウを塗りながら、おっ開いた鼻から毛がコンニチワ!してるのを見つけたものなら完全にタナトスど真ん中。ハゲてて口臭くて鼻毛がはみ出てる三重苦に、おもわず自分がダサすぎて死にたくなってくる。
 そうしたいくつものダサ要素が同じ時間にたった一人の人間のたった一つの顔の中で同居してしまっていることの残酷とユーモア。とどめのように眼鏡のレンズに指紋の跡など残っていたらそれはもうアバターすら超えた、ある種の奇跡である。
 「こんなはずじゃない」とか「もうちょっといけてるはず」とか、「ダサい」の手前にはかならず自惚れや自尊心があるに違いないが、切りこんでくるのはいつも一瞬だ。「10年間煩悶したけど結局ダサかった」というようなことはなく、ダサさについての「気づき」はホーガンから放たれた矢のように音速・光速でポジティブな思い込みに刺さってかかる。

 年末、ライブをした時にある曲のあるフレーズに入る直前、やっぱり瞬間的に「おいおい!!!!!こっから先のフレーズはすっげえだせーぞ!!!!!!!!」という確信が悪魔以下の下劣な生き物の声でノーリに響いたような気がしてならず、そこから先歌詞が聞き取れないようにモゴモゴ歌うというそれこそダサさの極みのような歌唱を披露した。これまたダサすぎて死にたくなった。
 「ダサさ」の特質とはこの唐突さ・前振りの無さだ。だって本番まで何百回と歌いまくってきたものが、そして練習の何百回すべてにおいてダサいとは感じなかったはずのものが、あの空間・あの視線たち・あの微妙な熱量の前で一瞬にしてガラガラと崩れ「ダサきもの」に化けてしまう恐怖。
 その場でそう感じたのならそれこそ音速でフレーズを紡ぎだしてダサさから逃れるという、ヒップホップ流フリースタイルの精神につよく憧れるがそうした技術も知恵も持ってないのでしょうがないからそのまんまモゴモゴ歌うしかない。
 うちのバンドにとって歌詞カードとは、地図であり標識であり遠足の栞であったりするのだが、けっして信じてはならない。正邪を反転させ、天地をひっくり返し、着物女性のうなじの剃り残しとウンコの美醜をあべこべにしてしまうような悪魔インクの羅列。そのぐらいに見なさないといけない。
 だが事実、ライブの場で価値が反転したのは歌詞カードではなく、もっと歌の核のようなものじゃなかったか。ダサいよりも生真面目な蔑みの言葉が向けられるべきもの。嘘という言葉よりも根が深い欺瞞のようなもの。
 あの晩ノーリを過った唐突な絶叫は、部屋やスタジオで、自分やメンバーに向けていたでっち上げがまったく音楽としてツマらなかった・歌詞も単なる文字数あわせでしかなかったということの証左であったような気がしてあれからずっと不安だ。
 じゃあせめて、どうすれば永久不滅絶対にダサくない表現が起こるのかを考えてみる。完全無敵の「ダサくなさ」って何か。そんな行為って存在するのだろうか。ところでそんなもんが面白いのか。
 ……しばらく考えておもいついたのが「ありがとうをちゃんと言う」。


「口臭いハゲのモゴモゴな歌を見ちゃってくれてどうもありがとう」