一期一会オーバードーズ

 深夜バスに乗るたび、これまで吐いて捨てるほど見てきた東京の景色が息吹をとりかえすのに毎度感激する。
 こないだ京都に向かうため乗ったバスは、東京駅八重洲口を発車して新宿を経由したのだが、その途中でカーテンのすき間から見た自転車に乗った男の際立ちようとはなんだったのか。
 眠りから覚めて京都の景色を窓からながめるのと等価の生々しさ、立体感のようなものが、発車してから一時間あまりの東京都内で浮かび上がってくるのを今回も感じた。
 客観と主観であれば、大体において後者の感度のほうが鋭敏であるかのようにおもうが、あながちそうではないのかもしれない。物心ついてから30年弱過ごしてきた街も、薄明かりの灯るローファイ感をにじませたバスの車内からながめれば、脳内にはあたかもストレンジャーの見た光景のような映像が投射される。そして主観を恣意的に駆使してそのように景色をながめることなど不可能なのではないかとおもう。
 キュークツな座席と遠慮がちにカーテンを開けた小さな窓という、どうしても受動的にならざるをえない演出装置があってこそ、普段スッ飛ばしていた街のディティールをくまなく見つめなおすことができるのではないか。

 今年は特に東京以外のさまざまな地方を訪れた。地方都市はどこも似た光景、と言われるのもわからなくはないが、やはり初めて訪れた土地というのは常に違った印象をこの胸に残す。
 仕事でどこかへ行く場合、おそらくはそこになんらかのトピックがあり、トピックを見据えようとしたり見逃したりしながらそこに滞在するのだが、たいてい滞在二日目でその土地や街というものにふと気づかされることが多い。
 遠くに見える山脈の凹凸や、車道の中央線の白線の濃淡/レイアウト、三叉路のたたずまいや街灯の色。
 そこに自分の暮らしが根付いていない分、視線は客観的で、だからこそ暮らしている人間にとって気にもとめないような街の要素が見えてきたりもする。
 当然帰って来るのは東京なのだが、ここのところ一週間前後の出張だとしても帰った途端、街が変貌していることがある。
 通りが無くなっていたり、橋や建物が壊されていたり、そんなことが多々ある。なんだかそれに気づいてしまった時の感覚とは、子供の頃、静岡の田舎へ帰省していたときに東京の家になついたツバメが死んでしまったことを知ったときのショックに近い。もちろん子供時代にうけたショックほどではないにせよ、いくらかガッカリして「あ〜あ」と感じる。
 そんな「あ〜あ」は、都会人の傲慢なセンチメントなのだと最近のダムについてのニュースを見ながらつくづくおもった。
 ダム建設によって街が水に沈むなどのイメージが助長する喪失感・哀しみとは、俎上にあるダムとは無関係な地域に住んでいる人間の「客観」なのではなく、大きな思い込みを含んだ「主観」だったのだ。
 解体や工事を実行する側も街や何かを殺すつもりなどなく、カネと再生を創出しようとしている。ある種の蘇生や延命を図っているはずなのだ。
 今後、政治がどのような判断や選択をするかはわからないけれど、ダム建設に対する歯止めはツバメが亡くなるのをふせぐことではない。むしろダム建設がめざすのは、ツバメがこれからしばらくは飛んでいけるように人工の義肢を与えてやることなのだ。
 カメラを持って取材をしていると過剰に手厚い待遇や配慮をうけ、戸惑うことがある。こないだ愛媛を取材した際、先輩がカメラをまわしている間、背後で三脚を持って立っていた僕はやって来た女性にカボチャを3つ渡された。その女性は前日に取材した農家の方で、心遣いとして先輩と僕に土産のカボチャを3つくれたのだ。
 カボチャ3つというのは予想以上に重く、カボチャを車に積んでからはことさら女性のくれた気持ちの重さというものを感じた。おそらくカメラを向けられている人たちは、工事による再生に似たような期待を取材者に寄せているのではないか。そう感じると、いつもどこか後ろめたい気分になってしまう。


 地方都市が似たような光景でないと主観で感じる本質には、やはりそこで出会った人・人・人の思いのようなものにいちいち接するからだ。
 同じ国に住んでいるばかりに、こんな仕事をしているばかりに、年齢も文化も離れている市井の人間の強烈な優しさに触れてしまい、またいつか会えるのだろうかと想像しながら、きっともう会うこともないのだろうという現実を宙ブラリにさせておく。もう会えないという非情とむなしさを、「一期一会」という言葉がキレイ事にする。
 何かの記事で「国土の60%以上は森林」というのを読んだ。僕は60%以上、どころではなくおそらく99%以上の人生をアスファルトで過ごした。どこかの地方や辺境を訪ね、いいなーなどとおもう心が安易なのはわかっている。だけど「縁」と呼ぶにはあまりにモロい偶然の勢いで、ヨソの土地の誰かに出会い客観が主観に移行して見知らぬ街に対して何かを感じたとき、空々しいけど日本という「国の領域全体」がいとおしくなってしまう。新幹線からながめる景色がほとんど似たような田んぼの国に、数え切れないほどある安心と優しさを想像して千切れそうになる。
 東北出身の先輩が同じ地元の女性と結婚し、これから東京で子供を育てるのが不安なのだという。東京なんて子供が育つ環境なのかよ、と。「あ〜あ」とおもう。それと同時に東京をまるで定点観測でもするかのようにながめてきた僕の主観と、いまだ東京への客観をなくさない先輩が同時代、同じ場所で出会い交わっていることも冷静に考えれば妙だ。この国で与えられたそれぞれの人生はあまりにも自由で、到底「縁」なんかじゃ片づけられない。