魂の追跡可能性

 牛肉個体識別のウェブサイト。それはなぜかキチガイをおもわせる黄色が配色されている。ひよこ色などという生ぬるい黄色ではなく、どんな芸術の頂点にもおおよそキチガイがいるという不幸を確認するかのような「黄色」。
 もしかしたらそれは、食肉となる牛が最期の最期、遠のいていく意識の中でみた激烈な光線の色みなのかもしれない。

「もっと編集に魂こめろよ」
 この発言の末尾に「!」はなかった。ただ虚しく哀しく、惨敗した試写の後、局の喫煙所でこう言われた。
 それから僕の前頭部の斜め60°上ぐらいの位置で「魂」という言葉が浮かんでは消え浮かんでは消え、そうやって不規則に点滅しながらまた消えていく。
 倦怠に覆われた「魂」。しかしあまりに抽象的なそれをもってしか説き表せなかった失意。精神論的なニュアンスはあるが、気合いや根性に遥かに勝る「魂」の含む発光性。
 楷書ともゴシックとも明朝とも判別のつかないその文字は、視認できないほどの淡さでまた浮かんではダルくダルく消えていく。

 狂牛病の話題が世間を覆い、牛肉を食う人間が皆無のように見えた時期、客足の途絶えたアルバイト先の焼肉屋で在庫の肉をせっせせっせと食いまくっていた僕にとって食の安全など、いまさら言っても遅い。
 いつか突然狂牛病にかかって脳髄がどぼどぼどぼどぼ溶けだして重心が全部腰に来て生まれたてのバンビのように内股のまま関節と逆のほうに軟化した四肢の骨が骨らしい音もないまま折れてありとあらゆる身体の穴からオリモノのような色の汁がチャラリぃぃぃぃと流れて目玉がロンドンとパリを向いてしまって家族にお粥を食わせてもらうなんて、想像したらとても嫌だけどそれでも食の安全を危惧するには遅すぎる。
 働いていて、トレーサビリティーという言葉に触れることが多い。きっと訳せば「食品の安全確保」みたいなことかと憶測していたがトレース(追跡)とアビリティ(可能性)の複合語だった。
 たとえばある牛肉製品のパッケージに記載された10ケタの数字を専用サイトで入力すると「彼」の生まれから、転居の軌跡、やがて「彼」が屠畜された日付け/場所までを知ることができる。それが現在、食肉牛についてかなりのレベルまで整備システム化されたトレーサビリティーだ。
 しかし、これは一体なんだ…。
 全生産・流通工程にたずさわる従事者の自覚のけん制という裏テーマはあっても、表テーマは消費者(食い手)の安心感なはずであって、だがウィキペディアから体温を抜いたようなこのサイトの「彼」の履歴を見つめ想起するのは、食というものがどうしようもなく抱える悲しみ、それによって聞こえてくるのはウーハーから爆音で流れるかのごときドナドナのメロディーと情緒不安=安心とは真逆の感傷だ。これによって一篇の詩は創作できるかもしれないが、与される食の安心などコマ切れ肉一枚の重さほどもない。
 こうなってくるとトレーサビリティーの整備化とは「泣きながら食え」という魂への要請作業に近い。
 一冊の小説に「1909年津軽生まれ、1948年玉川上水で入水心中」と大胆に編纂された著者追跡録が載っていたのなら、それもまた「病みながら読め」ということだ。太宰を一冊も読んだことのない僕にだって、その略歴を幼いころ目にして以来、病みながら読まなきゃいけないことは知っている。

 魂に頓着したいというおもいなら、漠とある。
 けれどそれは気合いや根性にも似ていて、だが強度があるぶん、あまりにも危険だ。牛肉個体識別サイトに配色された「黄色」の領域に人格ごと侵犯され、色の美醜を判断する能力をも失う恐れがある。

 こないだ深夜、大きめのエレベーターで、ある男性と二人きりになり、彼はせわしなく急ピッチの呼吸をつづけていた。おそらくADである彼の魂の行く先を、僕は永遠に追跡できない。
 仮になんらかの奇跡で彼の墓碑にいつか手をあわせる機会があったとしても、その時僕によぎる魂とは、農家の人々が食肉慰霊碑の前で手をあわせる時に孕む魂に絶対に及ばない。魂とは何なのか、まったくわからないが、それでも決定的に何かが抜け落ちている。
 「彼」の出自や死期ではなく、「彼」がある深夜エレベーターの中で見せた一瞬の異形ではなく、何か本当のやさしさをもって「彼」の全体にまで関係を持てた時にしか、身体性がある、具体的な魂が立ち現れる可能性などない。
 そんな魂と出会うことをめがけて、しかと対象と向かい合うべきなのだ。生き物でも、創作でも、食べ物でも、概念でも、そうやって魂をこめることはやがておそらく可能なのだ。そう信じられなければ何を信じるんだ。