空気のような異物

 このノートを始めてから意識的に携帯電話のカメラで写真を撮るようになった。SDカードに記録したものをパソコンのモニターで見るというのがやってみたら意外とおもしろかった。自分の携帯のカメラが市場にあるもののうちどれほどの機能のものなのかもわからないし、大画面で見れば(晴天時の風景をのぞいて)ほぼ間違いなく画像に‘アラ’はあらわれるが、その‘アラ’がそれはそれでおもしろい。
 日常も写真になってしまえば、日常から少し離れた心の位相にささやかな印象をともないながら残る。僕にとって「撮る」という行為が日常に溶け込むまでにはまだ時間がかかるだろうし、だとしたらなおさら‘いま’写す景色は若干濃い印象を残して日常から離脱する。
 携帯カメラで写真を撮るという行為にもまだ慣れを覚えないが、本職ではビデオカメラをまわす行為がメインにある。メインにあるというのは撮影行為が核であり起点であるというだけで、もちろん撮影のための準備も撮影後の編集もさんざんあるから時間的な比重はあまり多くない。だから慣れはいまだにない。
 先日現場でカメラをまわす経験があまりない後輩の人間がカメラをまわしていたところ、映りこんだ女性に烈しく叱責・非難をうけるということがあった。後輩に先行して現場に入ってもらい撮影をしてもらっていたため、僕は叱責されたときにそこにいなかったがこれは失敗した。後輩に対して、それ以上に映されることに叱責した彼女に対して、それよりもさらに今後しばらくは撮影行為をしていかなければ立ち行かない自分自身に対しての、痛快な失敗だ。
 叱責された場所は、豊穣で雑多で有機的な人間の臭いのする現場であり、後輩の人間がそこでカメラをまわすことで少しでも楽しめたらいいとおもって撮影をさせていたのだが、こんな思いばかりは完全に間違っていた。
 自分にフィードバックさせて考えてみた時、仕事においてビデオカメラをまわすのが楽しいとおもえたのはどのような機会であっただろうか。たしかに楽しいと感じられることはあったのだとおもうが、具体的な映像をともなっておもい起こすということがなかなかできない。たった一人でレンタカーを走らせ、中部・関西地方の実景を撮ってまわったロケなど、むしろ‘人間を映さない撮影’のほうが楽しかったものとして情感をありありとおもいだすことができる。
 風景よりも、物体や商品よりも、「人間を撮りたい」という気持ちは、会社に対して、あるいは内省的にでも言い続けていたいのだが、その気持ちは本当なのだろうか。かなりポーズの度合いが色濃いのではないか。ビデオカメラについて徹底的に学習して、実景や商品のシズルを美学をはらんで撮れるようになったほうが、‘仕事人としての撮影者’としてよっぽど幸福に近づけるのではないか。
 現在の日本で、ビデオカメラが在るということを心地よく受け入れるメンタリティー絶滅危惧種である。何かの折にビデオで撮られて、テレビやネット配信されて傷を負った人というのは絶対数少ないはずなのだが、それでもビデオカメラを苦手におもう、場合によっては忌み嫌う感情は圧倒的なマジョリティーとして君臨する。抽象的な分析になってしまうが、カメラについての負の感情を牽引したのがテレビを筆頭とするマスメディアであることは間違いないだろう。
 人物が人物を撮影できる土壌をメディアが率先して破壊し(これはすごいことだ)、さらに個人情報保護法などが追い討ちをかけた。‘ビデオカメラを持って撮影する人=悪い人’という認識までにはさすがに至らないにせよ、どんな善人でもカメラを持った途端、善の何割かが削り取られて他者の眼には映る。きっとそうではないか。
 プライベート/商業用を問わず、たとえば世の中で今日撮影録画されたビデオテープのうち、‘いい映像’と‘イヤな映像’の比重はどれぐらいだろうか。全部のテープ内容について、ランダムに選出した10歳から60歳まで1000人の男女に‘いい’か‘悪い’かを多数決で判断してもらい、それぞれの実尺を測ったらどんな比率になるだろうか。
 これはほんとにわからない。プライベートの家族ビデオなどをおもいうかべれば「いい映像のほうが多いに決まってる」と安易におもえるが、それに対して悪事を被写体に据えているカメラというのは今日どれだけまわっているのだろう。悪事を狙う撮影者が、悪意によって撮っていないにせよ、結果、印象として‘悪い’とされる映像はゴマンとあるし、テープ収録/記録されたものを観る者が‘いい’と無心で喜ぶことは、日に日に希少になってきている。
 スチールカメラと違って、ビデオカメラは録画ボタンを押してから再度ボタンを停止させるまでの時間すべてを記録することが出来てしまう。画角がどんなサイズにせよ、停止のボタンを押すまでレンズの向こうのフレーム内に在るものは、とりあえず全現象が映る。レンズを向ける方向は、そのカメラを持っている人間だけが知っている/予測できる/予感しているし、場合によってはカメラを持っている当人でも瞬間までワカラナイのだ。
 ビデオカメラを持って自分の体を軸に、右から左へとレンズの向きを振る。そうするとレンズが左にいった途端、すこし遅れてよけたり伏せたりする人がいる。性格はわからないが、気持ちとしては「なんだよ、こっちも映すのかよ、ヤだよ」といった感じだろう。こういうことはしょっちゅうあり、意識しないでテレビを見ていてもオンエアでそうしたシーンに遭遇することはめずらしくない。
 人間が存在してもしなくても、右から左へスムーズな映像で状況を撮るならマシンを使った方がいいに決まっている。質も状況への介入も、圧倒的にマシンで撮るほうが優位だ。実際にマシンで撮るにはお金も含め様々な問題がたちはだかるが、それでも時々、撮影している自分が人間であることがよくないと本心でおもってしまうことがある。「人間を撮りたい」とためらわずに言っていたはずの人間が、人間でいたくなくなるのだ。思考するでも瞑想するでもない、働いているというごくありふれたはずの時間において、モロに自分という存在を、理屈の入り込む余地のない感情そのものが疑ってしまうのだ。
 日常にビデオカメラが在るということの理不尽。それは過ぎていく時間を何度でも再生可能な媒体に変えてしまうことの理不尽だ。メカやテクノロジーとは‘ときめく理不尽’を産むはずのものだが、ビデオカメラのそうした理不尽にときめく人間はもうあまりいない。ビデオカメラに向かってピースサインを送る子供は、僕の子供時代をおもえばおそろしいまでに減った。    
 だとしたら‘不愉快な理不尽’をばら撒くメカを携えた僕は、どんな立ち居振る舞い舞いをしたら‘理不尽’を、せめて‘不愉快’を払拭することができるのか。
 他者と会話しながらカメラを撮って、向こうの居心地の悪さを察知すれば違和感を払拭しようとして、そうした態度がさらなる違和感を産んで、自分は決してメカになれず、ただし自分にもなれず、わざとらしさと空々しさとチグハグな気配りを矢継ぎ早に繰り出す異物になり、レンズの向こうにいる人間を無言で牽制しながらその人の人間らしさを搾取する。録画停止ボタンを押したとたん通常営業に戻った僕は「ありがとうございました」とお礼を言い、そそくさとその場からいなくなる。すぐにいなくなるのもヘンなので、その場に残って会話をつづけてもいいのだが異物と化した時の饒舌さは一度カメラを停止してしまえば取り戻せず、妙な沈黙が今度はこちらの居心地の悪さを喚起し、だからやはり自分のタイミングでその場を立ち去る。映っているのは他人だが、他人にとって自分がどう映っているかを知ることはない。
 野球のことはよく知らないが、キャッチャーがピッチャーの集中力を高めるためにミットの色を考慮するという話を昔見聞きしたことがある。そのロジックを流用して‘不愉快な理不尽’を携えた男の着るべき服の色は決められないのだろうか。
 「黒子」という言葉があるぐらいだから黒い服がいいのか。黒だと真面目すぎて見えてしまう恐れがあるからフランクに会話をするためにはグレーぐらいがいいのか。髪の毛は黒髪よりも金とかのほうがかえって緊張感をほぐすのか。ヒゲがあったほうが‘真摯な撮影者’にみえるのか。笑顔でいるべきか。固い顔でいるべきか。能面のような顔でいるべきか。
 格子柄のダウンジャケットを着て青いフレームのメガネをした男のすべての自意識が、さらなる牽制・緊張・歪曲・畏怖・違和・抑圧と、そんな居心地の悪さに巻き込まれた人々の時間を収録したビデオテープを産む。これがプロダクションの人間が獲得した、まごうことなきプロダクトの原材料だ。
 遠い土地からやって来て、やがてすでに出来上がってしまっている状況に適合していき昼休みに笑いながら校庭で遊ぶまでの、‘転校生の流儀’を本気で倣うべきなのだ。ただ、残念なことに時間がない。‘不愉快な理不尽’を携える人々は、時間をかけ過ぎてしまうと仲間だった人たちからも嫌われてしまうことがある。
 指向すべき存在とはきっと‘空気のような異物’だ。そんな人間だ。人間がそうした存在になることはきっと無理である。それでもちらつく諦念をシカトして、‘空気のような異物’になる方法を、もっともっと考えなければならないのだろう。


 被写体に叱責された後輩は終電があるので先に現場を後にした。やがて僕も撮影を終えたのだが、後輩が僕のバッグを預けたコインロッカーのある場所はシャッターが降りてしまっていて始発まで開かないのだという。裸のカメラを抱えたまま、友人のいる飲み屋まで僕は深夜の歌舞伎町を歩くしかなかった。個人情報保護法よりもよっぽど強靭な野性の掟で個人情報が守られているこの‘町’では、カメラを持っている人間を見るだけで胸グラをつかまれることもある、いつか誰かにそんな話を聞いた。‘不愉快な理不尽’に対してあたえられる、当然の理不尽だ。
 恐かったので、僕はダウンジャケットにカメラを隠しながら早足で雨の歌舞伎町を歩いた。隠しきれない‘不愉快な理不尽’を黒服の客引きたちが牽制のまなざしで一瞥する。僕は撮影者という属性を殺すため、ただ無心に歩いた。歩いて、歩いて、歩いて――刹那、‘空気のような異物’になれた。