デパートの屋上


平日昼間のデパートに行くというのはどれぐらいぶりだろう。
今日、撮影があって訪れたのだが、予想を遥かに上回る活気と人の量に驚かされた。
デパートの展示場で幼年の子供を対象にしたイベントをやっていたのだが、ものすごいにぎわいだった。



デパートというのは、あるいはデパートの屋上というのは、僕が気付かなかっただけで、こうやってずっと活気があり続けたものだったのか。
だとしたら「デパートの屋上は元気がなくなった」というあのイメージはどこから来たのだろう。
十代、そして大人になってからも、ごくたまにデートの時や何かの行動の流れでデパートの屋上に行くことはあったが、その折に見る風景はいつも寂寥としていた。だから僕はずっと、デパートの屋上というのはどんどん元気を失っているスポットだとおもっていた。
ところが今日見たデパートの屋上は枯れていなかった。枯れていないどころか咲き誇っていた。あまたの親子連れや会社員で満開だった。
僕の記憶にある‘寂寥たるデパートの屋上’は幻か。
いや、だとしたら幼年期の‘華々しいデパートの屋上’のほうが記憶の鮮度として幻だろう。
イメージと今日の光景との落差は、おそらく子供のころを過ぎて、デパートの屋上の‘旬’を見過ごしていた・立ち会うことなどなかったということによるものだ。
だから今日のにぎわいには驚かされた。






もはやデパートの敷地でタバコを吸える場所は屋上しかなく、撮影の合間にタバコ吸いたさに屋上へと昇っていったのだがくすんだ陽光と強い風がすさぶデパートの屋上は、薄い記憶の中にある子供の頃のそれとそっくりだった。
小学校入学の前の記憶や思い出なんて、ごくごく限られたものしか覚えていないが、それでもいくつかのデパートの屋上というシーンはおもいだすことができる。
やはり子供の心に強いインプレッション残すだけの、スペシャルな磁場と‘華’が子供時代のデパートの屋上にはあった。




昔と今日で、デパートの屋上のランドスケープに大きな誤差はない。ただ僕という存在がすさまじく変質した。時間の流れを考えれば、それはきわめてあたりまえのことなのだけれど。
記憶の中にあるデパートの屋上にも、‘大人’はたくさんいる。だが、大人というどの存在ににも異物感がある。今日いた僕は(少なくとも子供にとっての)‘大人’だ。記憶の中にいる‘大人’には、20代後半の人間も多分に含まれるはずだし、僕が見ていた‘大人’たちが今何歳で何をしているかを考えるとどこかぞっとするものがある。
彼や彼女たちは、2009年、社会という目線から見ても‘大人’、それも人生の半ばを過ぎた‘おっさん’や‘おばさん’という領域を生きているはずだ。きっとシワは増え、髪は薄くなり、体力は落ちている。生きているはずだと書いたが、断言はできない。
そんな彼らが、たとえばもしも今日デパートの屋上にいたとしたら、変わらない景観とムードの中で何を感じたのだろうか。