ディア・トリックスター

■怒涛(になるであろう)の4月を前になんと明日から3連休がとれそうだ。
う〜ん、2日以上の連続休みをとるとネガティブなこと考えだすんだよなー。
何かで埋めよう。ヤバくなったら本を読もう。音楽を聴こう。


■考えるべきことをけっこうないがしろにしたまま今週が終わってしまった。


■【新宿B】の企画についてはやっとメールを送った。
もうとにかく撮るだけだ。
構成案を練る要素すら枯渇してる段階でカメラを回すのは、非常に不安なんだけど撮らなきゃゼロだ。
あれだけ撮りたかった対象だ。その場所でカメラを回せることを喜ばないとな。撮ろう。撮ろう。


■考えるべきことは山積みだが、こないだ考えていた表現の中で「似ているということ」の持つ意味については少し‘?’が解けた。
あの後、「何かに似ているけど好き」なものと「何かに似ているから嫌い」なものを頭の中で並べて考えていたのだけれど、双方の大きな差として「物語性」というものが大きく関係しているのではないかとおもった。
「似ている」歌でも物語でもデザインでも、そこに重大な物語性があれば好かれる可能性を持つのではないか。
たとえばパフィーの『これが私の生きる道』にはビートルズサウンドがいろいろと散りばめられているが、歌として愉快なのはもちろん、「ビートルズと似ていること」を奥田民生の‘ビートルズ愛’という物語性が凌駕している。その凌駕によって「似ている」のニュアンスが‘パクリ’という否定的な概念から‘サンプリング’や‘オマージュ’といった‘時代の縦軸を継承した’とする肯定的観念に化けるのではないか。
いや、それにしても引き合いに出すのが奥田民生なんて、一番好きなアーティストじゃないか。これは分析にもなんにもなっていない。B'zのファンはB'zの楽曲の「何かに似ている点」に大きな物語性を見出して興奮するだろうし。


■ただ、物語性を構築するには少なくともある程度の量(大きさ/尺の長さ)が必要だ。
たとえば4コマ漫画のうちの1コマが、恣意的に何かに似せられてのだとしたら、元ネタに気付いた時点で誰しもが冷めけなすだろう。
5分程度の曲で何かをパクったとて、それを凌駕するだけの物語性をその曲の中で用意するのはかなり難渋するだろう。
大竹伸朗のスクラップブックに向かう作業などは、真っ向から「似ている」ものに対峙して対峙してこれでもかと‘何か’を足していき、やがて質量の独自性(物語性)が「似ている」ことをどれだけ凌駕したか、その飛距離を測る試行ではないだろうか。


■今週の『SPA!』にとある音楽DVDのレビューが載っている。そのレビューでは故・阿久悠の「平成になったとたん、善意のうそつきがいなくなった」という言葉を引用しているが、この言葉もまた、表現における「似ている」ことを考える上での巨大なヒントが含まれているようにおもう。この言葉を読んだ時、すっと体をすくわれるような感覚があった。