志望の残り香

 子供の頃から有楽町や銀座にはよく連れて行ってもらったが、銀座でも中央通り以東に行くことは稀だった。
 小学校中学年の頃か、大好きだった『ポリスアカデミー』を観るために父親がシネパトスへ連れて行ってくれたことがあったが、歌舞伎座を見たのはその日が初めてだった。
 初めて見る歌舞伎座はむちゃくちゃすごかった。「こんな建物がある」ってだけで、なんかもうむちゃくちゃだった。初めて遭遇した歌舞伎座は、「マジかよの塊」に見えた。晴海通りの向かい側から歌舞伎座をながめ、唖然としたまま激しく興奮していた。
 それからだいたい15年ぐらいが経って、そこらへんの土地と縁を持つことになる。
 ネットの就職サイトを見て面接を申し込んだその会社のアクセスには、最寄駅として「東銀座/築地市場」とあった。
 「東銀座」という駅がいったい銀座のどのあたりのことを指すのか浮かばなかったが、たどりついたらシネパトスや歌舞伎座のあたりだった。いまおもえば、だいぶ駅の出口を間違えていたのだけど、シネパトスらへんから晴海通りに沿って築地のほうへ、面接をうける会社までを歩いた。
 歌舞伎座は相変わらず「バッチリガンギマリ」といった感じのドギツい覚醒感のある異形としてそこに存在していたが、あとはなんだかフツー。銀座っつーわりにフツー。
 舞妓さんがいる居酒屋って言われて行ってみたら、舞妓さんの恰好をしたコンパニオンだったみたいな。銀座が舞妓さんだとしたら、東銀座は舞妓さんの恰好をしたコンパニオンじゃん。というような肩すかし感、それが面接で訪れた東銀座という土地の印象だった。
 このまま晴海通りを行けば築地へ、そして晴海ふ頭へつく。
 中学だか高校だかの頃、デートで都バスに乗っていたら寝過ごして晴海ふ頭にたどりついたことがあった。まだお台場が開拓される前の時代、曇り空の晴海ふ頭の荒涼感といったら、そりゃソートーにキテいて折り返しのバスが来るまで僕はひどく不安だった。
 折り返しのバスに乗ったら15分もしないうちに数寄屋橋についてマリオンが見えて、あんなに荒涼とした土地が銀座の近くにあるということが妙だった。
 面接をうける会社には約束の時間よりだいぶ早く到着した。
 ポストの名札で面接を受ける会社がそのビルで間違いないかを確認し、タバコを吸って、吸って、吸って、それでも時間があまった。隣にはビジネスホテルがあって、ビジネスホテルの脇にはいろんな自販機が入ったミニコンビニがあった。
 ミニコンビニに入ってオロナミンCを買った。その頃、僕には缶コーヒーを飲む習慣がなかった。
 オロナミンCを飲みながら「志望動機」を諳んじた。
 もしこの会社に入ったなら、またこの自販機でオロナミンCを買うのだろうか。
 オロナミンCを飲んでからミニコンビニの表にでて、それでもまだ時間が余っていたので、またタバコを吸った。



スキゾ気質者や統合失調症を経過した人の味わいうる生の喜びの一つは「余裕感の中で憩う」ことであって、その味わいの深さは、あるいは他の気質の人の知りえない種類のものであるかも知れない。私は患者に治療目標の設定を、「あなたが何かをしてもよいが何かをしなければならないとは感じないだけのゆとりをもてるところ、何かになってもよいがならなくてもよいだけのゆとりのあるところまでお互いに努力するということと思うがいかがでしょうか」という意味を話して行なう。「それからはあなたの自由である」とも。(…)

中井久夫 『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収<統合失調症における「焦慮」と「念慮」>ちくま学芸文庫,96頁)



 会社に入って5年目。インターネットのレギュラー番組が終わった。
 とにかく予算がなかったが自由はあった。視聴者数もわずかだったが、自由だけは何せぼう大にあった。
 打ち上げにはプロデューサーからカメラマン、VEさん、キャストや事務所の方々が一同に集い、自由すぎた番組の終わりをにぎやかに祭った。
 このチームの散開はさびしいけどいつか仕事で再会しましょう、また自由なの企画通しましょうね、通してくださいね、みんながそう言って大はしゃぎでお酒を飲んでいた。
 大はしゃぎのその夜、なぜか浅草のその居酒屋には舞妓さんがいた。たいして大きくもない居酒屋にただ一人の舞妓さんが。
 やがて酔っぱらったプロデューサーが、僕の隣に座らせようと舞妓さんの手を引っ張って言う。
「ほらほら、この人この人、この春で終わっちゃった番組をずっとやってくれたの、ほらほらほら、横座ったげて、横」
 舞妓が・・・横に・・・キタッ!
 とりあえず嗅いでおこう。嗅いでるのがバレないように喋っておこう。
「いつから、舞妓さん、やってるんスか?」
「えっとお〜、先週・・・?」
「へえ! じゃあ、新人の舞妓さんだ! どうして舞妓さんになろうとおもったの?」
「うーん、どうして? どうしてだろう? どうしてだろうね?」
たぶん舞妓の修行の過程でこの人の脳ミソは減っていったのだろう。それは誰かが責められることではないはずだ。
「やっぱり出身って京都とかなの?」
「出身? 出身って生まれたところ?」
「そうだね。出身は生まれたところだね」
「あー、大宮、大宮」
「オオミヤ・・・?」
 京都市左京区オオミヤ。京都市右京区オオミヤ。京都市伏見区オオミヤ。京都市東山区オオミヤ。えっと、あと、なんだ? どこにあんだ、そのオオミヤ。
 オオミヤの舞妓は他の人間に聞こえないように僕に耳元でささやいた。
「ぶっちゃけわたし、コンパニオンなの。ただのハケンで来てんだよね、この店。べつに隠さなくてもいいんだけど、なんか今日のお客さん、舞妓だぁ〜〜〜!って大騒ぎするから、引くに引けなくなっちゃって。ひゃひゃひゃ」
 それからは、嗅いでも嗅いでもひたすら安い香水の匂いが感じられるばかりだった。