イボと修理代

 秋から治療している痔の具合はなかなか改善されず、薬代もバカにならないしさすがに滅入る。
 痔の薬以外にも、乾燥する気候によって加速した痒みを抑える薬、さらに禁煙外来で処方されたチャンピックスも相変わらず飲んでいる。
 常用している薬が、ここのところ多くてややこしい。
 どれも死に至らしめる深刻さのない疾患なのが救いだが、「この身体、調子いい」とは言い難い。いろんなところが欠損していて修理している。そんな感じだ。


 元旦に酩酊してデジカメをアスファルトに落とした。友人たちとの写真を「自分撮り」しようとして、手を伸ばしカメラをこちらに向けている時だった。
 筐体から飛び出たレンズはそのままフリーズし、うぃーん、うぃーん、とうなるだけで動かない。電器屋の修理カウンターに持って行ったところ、「この症状」はよくあるそうで、「たぶん18000円ぐらいかかる」のだそうだ。
 修理カウンターの店員は親切心からこう言う。
「18000円もあれば同じシリーズの新しい機種が買えますよ」
 それはなんか違うだろうと、店員のくれた提言にもやもやした違和感を覚えながらも、見積もりをお願いして修理カウンターを後にした僕はデジカメコーナーを物色する。たしかにスペックの高い機種が、予想される修理費よりも安く買えるようだ。
 数日後、修理センターから電話があった。やはり修理費は18000円前後だという。
「検討して折り返します」そう言って電話を切った。
 壊れたデジカメと新しいデジカメが頭の中でうようよしている最近、どういう経緯だか、行ったことのない外国の硬貨が数枚財布に混ざっている。
 その側面は500円玉や10円玉に似ていて、コンビニなどのレジでひっかかることもしばしばだ。
 日本で価値を持たない硬貨はゴミと等しい。むしろ生活にちっぽけな罠を仕掛け、邪魔をする。
 修理費と新品の最新機種が同額であること。外国の硬貨が日本で無意味なこと。そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、一瞬お金と、幸福や価値の釣り合いがどうでもよくなって仕事など辞めてしまおうかといった衝動に駆られる。
 ゴミ同然だとわかっていても外国の硬貨は捨てられない。薬局に入り、外国の硬貨をどけて支払いをし、ノズル式の痔治療薬を購入する。
 痔・痒み・禁煙治療など、相変わらず身体の修理は続いているが、年が明けて創作のペースは悪くない。
 「怒り」や「落胆」「恥ずかしさ」などといった出来上がるものの骨子、その起点はすべて「欠落の感覚」だ。修理が必要な体の不具合は、その感覚を忘れさせないでくれる。
 便座に座り、ノズル式のフタをはずして左手の中指で肛門をまさぐる。小さく息を吐いて肛門を開通させながら、フタをはずしたノズルを挿入する。注入薬のふくらんだ部分を中身が完全になくなるまで押しつぶす。身体に入っていった軟膏が、オレの肛門の何に届き、オレをどうやって修理しようとしてくれているのかはわからない。
 ノズルを肛門から抜き出し、フタを戻してトイレットペーパーにくるむ。そして18000円の修理費をだして、壊れたデジカメを取りにいこうと決意する。