別の感情 (3/3)

【サイヤクの宴】sideB-3

 葬儀場からの帰り道、係の男性がワンボックスで町内会館まで僕たちを送ってくれた。この葬儀場のシステムとして、飼い主の「迎え」と「送り」は必ず含まれているのだという。
 うちの両親と同じかそれよりも年配のこの男性は、ペットの亡骸と亡くした飼い主を、いつもこのように送迎しているらしい。ハードな仕事だ。だけど世の中から、どうしても無くしてはならない仕事だ。
 それにしても今日のワンボックスには、飼い主だけでなく飼い主の友人まで大勢乗っている。まるでちょっとした遠足のようだ。
 甲斐甲斐しい葬儀場の対応に感激したのもあって、行きよりもテンションが高めの僕らの会話の輪に、おそるおそる運転席の男性も参加してくる。ペット斎場のおくりびとに、こちらも興味が尽きない。
「ペットを飼っちゃいけないっていうマンションも多いですからこっそり夜中に引き取りに行ったり。あと、なかなか離れたくないっていう飼い主さんもいらっしゃいますから、死んでから一週間も経った後に引き取りに伺ったり。ケースバイケースですけど」
ケースバイケースと一口に言うが、それこそ亀のような小さな生き物から、大型の動物やは虫類などに至るまで、「ペット」であればなんでも引き受けるのだという。
 傍から見れば霊柩車でもなんでもないただのワンボックスカーだけど、この車は、動物と人間を悲しみの聖域へと運ぶ渡しの船だ。命を落としたペットと飼い主をお別れの場所へと連れていく。セレモニーが過ぎれば、ペットのいなくなった住まいへと飼い主を送っていく。
 運転席の男性に、一番気になったことを聞いてみる。
「ご自身もペットとか飼われているんですか?」
「私ですか。前に死なれた時が悲しすぎて、今はもう飼えないですねえ。僕なんかもオヤジが死んだ時はやらなきゃいけないことが多くて緊張しちゃって泣けなかったけど、自分のペットが死んだ時はねえ、それはもう一カ月以上、動けないぐらい辛かったですよ」
動けないまでの心痛を経験しておきながら、いまだに毎日、亡くなったペットと邂逅するのがこの男性の仕事だ。
 渡しの船の船頭は、なんだかとてつもない矛盾を抱えているように見えた。
 ペットを飼うこと、ペットに亡くなられて戸惑うこと、ペットを人間のように見送ること。ペットを囲む人間の存在と行動は、そのすべてが矛盾している。
 多分この男性は、そうした限りない矛盾を肌で知っているのだ。そして確信している。たとえペットであろうとも、人間が人間の死を見送る時と同じように、そこにお別れのセレモニーが必要であることを。動けないぐらい辛い人間の悲しみが昇華されていくには、そうした矛盾の儀式が必要であることを。
 男性はさらに言う。
「ペットが死ぬっていうのは、なんて言えばいいんだかよくわからないですけど、きっと別の感情なんでしょうね」
別の感情。「ペットという家族」―――そんな曖昧な存在の死は、そんな曖昧な言葉でしか表せない。
 葬儀場のある大森から北品川まで、車窓を流れる第一京浜の景色は鈍っていて淡かった。そしてすこぶる灰色だった。
 
 ***

 火事から、そしてチッタの死から、少なからぬ月日が過ぎ、結局、火元はわからなかった。
 その後、警察の人たち、科学捜査班の人たちが足しげく燃えた家に通い捜査を続けてくれたが、明確かつ絶対な火元は判明しないということを告げられて、捜査は打ち切られた。
 クソ寒いさなか、尽力してくれた人たちには申し訳ないが、火元がわからなくってよかったと切に思う。
 それが、タバコでもストーブでもコンロでも、火元がわかった時点でチッタを殺めた感覚が家族の誰かによぎってしまうだろうし、だとしたら明確な火元など判明しないでくれて本当によかった。
 火元がわからなくてよかったのは、チッタのためではない。遺された人間の都合だ。
 災いの場所から素早く逃げる健脚を持ち、気分や機嫌によって愛想もまばらで、自分の悲しみの所在をこのように歯の浮いた言葉で整理しようと試みる、ズルく、あざとく、矛盾した人間の都合だ。

 飼い主とペットのあいだに横たわる「主従の関係」。その関係とはひっくり返しようのない絶対の理であるはずなのに、ペットへの愛着が、膝に乗るペットとの密着が、ペットが部屋にソソウしたウンコの付着が、それら「ペットがここにいる」という習慣の全体が、その関係をまるでないもののように忘れさせる。
 生活での共時性は、やがてペットをペットと見なす視野を飼い主から奪い、「主従の関係」を遠くの宙にほっぽらかしにしたまま、ペット=(イコール)家族の一員、という幻想の愛に人間を閉じ込めていく。
 こうやって書いている今だってそうだ。
 意識が、チッタはペットではない、という確認を迫ってくる。今でもあいつはペットという概念からだいぶ逸れた、僕の心の中にある、家族の円の中に、はっきりといる。
 焼けたチッタの亡き骸がもっとも悲しかったのは、それを見た途端、後ろ髪をわしづかみにされて後頭部から一月のアスファルトに叩きつけられるかのように、即座に幻想が粉砕し、すっかり忘却していた「主従の関係」がくっきりと立ち現れたからだ。
 同じ家で共に生活をしながら、火すら目にすることなく、1ミリの火傷も負っていない俺と、火の海に飲まれ、悶えながら命の途絶えた小さなあいつと。チッタが体に迫る火を感じながら僕たち家族を待ちわびた叫びとは、ビジネスホテルでチッタと会いたがる僕の心などとは比じゃないほどに痛切で、苦しく、不安で恐ろしかったはずだ。
 これ以上に明快で不愉快な「主」と「従」の関係がこの世にあるか。そんなチッタと俺たちを、誰がイコールで結べるものか。
 災厄がもたらしたチッタの死によって、チッタが本当の家族じゃないことが暴かれた。だけど同時に、家族を失った痛みの感覚が、ここにはある。
 人間との死別とは異なった、あまりにも込み入ったやるせなさが「別の感情」を要請する。
 僕自体が一つの存在としてじゃまるで足りていないような、主従と家族の狭間で、人間と動物の狭間で、分裂しそうな今日を生き抜けるためには、「別の感情」を用意する必要がある。
 消えてしまった命を送る時に、誰しも「ごめんね」なんて言いたくないだろう。こちらがどんなに無愛想な時でも、膝に乗りたがるチッタをほったらかしてギターを爪弾いていた夜でも、一切の建前なく愛をばら撒いてくれた誰よりも純真な家族の死に際に、「ごめんね」なんて絶対に言いたくなかっただろう。
 その時―――火が接近し、火と接触したその時、お前が感じた温度を、感じた恐怖を、きっと魂の底から求めたかも知れない俺たち家族の存在と、不在による落胆を、想像するたび「ごめんね」のカタマリに見舞われて、今でも時々壊れそうになるよ。
 こうやって乏しい言葉に置き換えていって、整理できるわけのない気持ちも手なづけようとするから、人間てば愚かだね。矛盾してるよね。そんなことできっこないのにね。お前と俺は、同じ世界を別の言葉で生きてたんだもんね。だからさ、伝わりっこないけど、ほんとに、ほんとに、ほんとに、ごめん。
 言葉の届かない愛の対象(しかもサイアクなことに、それは逝ってしまった)をどうやって想えばいいのだろう。
 暮れなずむ五反田の空を見上げて、「別の感情」の在り処を探そうとするけれど、やっぱり離れられるわけがないから、今日もここでお前を撫でた手のひらを見つめる。