『オーキッド・モンタージュ(仮)』仮歌完成/「似ている」ということ

夕べ、セリの結婚式で披露するオリジナル曲の仮歌コード譜がなんとか完成。
いや〜難産だった。一晩明けて気にいってるからたぶん大丈夫。声が出るかがいささか心配。
やっぱりAメロから作り直してよかった。
昨日、なんの曲と酷似していることに気がついたかと言うと桑田佳祐の『風の詩を聴かせて』だ。これは似ている/似ていないのレベルではない。まんまだった。

ソダーバーグの『チェ』2部作を観てから(あまり意識せずとも)「似ている」ということが表現にとって何なのかを考えている。
世間には似ていることで賞賛を得る表現と、似ていることで非難・批判をされる表現とがある。
『チェ』は無論前者だ。ベニチオ・デル・トロの演技も、ゲバラの生きた過去という時代も、徹底的に「似ている」。
「似ている」ことが映画の芯にあり、その芯を基軸に編集がスクリーンを謳歌する。

いっぽう、ネットや雑誌上で似ている部分を指摘され剽窃とまで揶揄されるB'zの楽曲などはどうなのか。「似ている」ことの何が「ムカつかれる」のか。
もうかれこれ長い間B'zに関心を持てないが、けど彼らが「似て」いながらたくさんの興奮をファンに与え続けている存在であることは間違いない。だがB'zは「似ている」ことで、時に「音楽としてダメ」とまで捉えられる(僕もそう見ているフシがある)。
B'zが何かと「似ている」ことへの非難は、ただ売れていることへのひがみだけでは無い気がする。単に笑い種として「B'zがパクってる」ということが面白いだけなのか。

3月15日にめっちょの結婚式で披露する『キャスターマイルドマイガール』というオリジナル楽曲も、デモ音源を竹中に聞かせたら「B'zみたいですね」と言われた。
そういうえば『フリークス』を聞いためっちょに「斉藤和義をおもいだしました」と言われた時は、心のどこかで「しまった」という気持ちがないでもなかったが、竹中の言うB'zとの符号は大笑いしてしまう。

ただ、夕べ、セリと蘭ちゃんにプレゼントする『オーキッド/モンタージュ(仮)』の歌詞を書きながら、意図的に「神様だけが知っている」というフレーズを使った。
これはビーチボーイズの『God only knows』まんまであり、『ペットサウンズ』というビーチボーイズ伝の訳者あとがきのタイトルそのままだ。
その訳者はセリが深く愛する作家である。夕べ、僕は意識的に「剽窃」した。セリのために泥棒をはたらいた。
そういえばこの作家のデビュー作のタイトルもまた、『風の詩を聴かせて』によく似ている。

東京は寒い。快晴でこれだけ寒いっていうのはなんなんだろう。3月というのは紛れもなく冬だ。

juice

juice

ペット・サウンズ (新潮クレスト・ブックス)

ペット・サウンズ (新潮クレスト・ブックス)

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)