炸裂(SAKU-RETSU)3


南下南下南下南下・・・








沖   縄   炸   裂


























































1.富士山Ⅰ/2.シーサー/3.ステーキⅠ/4.魅川憲一郎/5.首里城公園/6.富士山Ⅱ/7.飛行機/8〜12.沖縄自動車道/13.名護のバス停/14.名護の少年/15〜20.結婚式前の光景/21〜23.かりゆしビーチリゾート/24〜26.名護の豪雨/27〜30.首里城公園/31〜33.両親(於首里城公園・大ロング)/34.35.国際通り/36.ステーキ店コック/37.ステーキⅡ/38〜40.那覇空港職員/41〜44.那覇空港模型/45.出発ロビー

挑発(CHO-HATSU)3








CHO-HATSU 3
the bottom of the newest Tokyo










ねえねえねえ、夜のかみさまって知ってる?
夜のかみさま? 
そう。夜のかみさま。
なあに、それ?
だれにもいわない?
うん。いわない。
ほんとに?
ほんとに。
ほんとにだれにもいわない?
いわないよ。
じゃあおしえてあげる。






夜のかみさまはね、夜になると、昼のあいだそらにかくれてたことをおしえてくれるの。
そらにかくれてたこと?
そう。ツムギはそらになにがあるかしってる?
そらには・・・おひさまと・・・くもと・・・あと・・・おほしさま。
それだけしかしらないんでしょ?
しらない。
もう。ほんとにこどもなんだから。
だってまだニコみたいにながいあいだいきてないもん。







ほんとはね、そらにはたくさんいろいろあるの。
たくさんいろいろ?
そう。みんなしらないけど、おひさまがまぶしくて、みえないだけなの。
そうなの?
そうなの。だから、夜のかみさまが夜にだけ、おそらにかくれてることをおしえてくれるの。




夜のかみさまは、お昼はなにしてるの?
だれにもいわない?
いわないよ。
ほんとにいわない?
ほんとにいわないってば。



ねこにばけてお昼ねしてる。
かみさまなのに?
かみさまなのに。



あとはなにしてるの?



だれにもいわない?



だれにもいわないってば。
























最新のトーキョーで遊んでる。










ぜんぶ叶う気になって、浮かれてる。






すんげー自由ではしゃいでる。







最新のトーキョーは、









テッペンしらずのいい感じ。







にゃ〜〜〜!




1.花房山Ⅰ/2.花房山Ⅱ/3.花房山Ⅲ/4.花房山Ⅳ/5.花房山Ⅴ/6.花房山Ⅵ/7.部屋Ⅰ/8.部屋Ⅱ/9.部屋Ⅲ/10.部屋Ⅳ/11.台所Ⅰ/12.台所Ⅱ/13.台所Ⅲ/14〜17.恵比寿ガーデンプレイス周辺/18.19.ガーデンプレイス・自転車/20.首都高目黒線下Ⅰ/21.首都高目黒線下Ⅱ/22.首都高目黒線下Ⅲ/23.夜の桜Ⅰ/24.夜の桜Ⅱ/25.新木場の猫/26.27.新木場・車窓/28.角川大映撮影所・空/29〜31.空撮(スカイツリー)/32.33.空撮(江東)/34.35.空撮(千代田〜港)/36.37.空撮(レインボーブリッジ)/38〜41.空撮(東京タワー)/42.新木場の猫(撫でながら)

志望の残り香

 子供の頃から有楽町や銀座にはよく連れて行ってもらったが、銀座でも中央通り以東に行くことは稀だった。
 小学校中学年の頃か、大好きだった『ポリスアカデミー』を観るために父親がシネパトスへ連れて行ってくれたことがあったが、歌舞伎座を見たのはその日が初めてだった。
 初めて見る歌舞伎座はむちゃくちゃすごかった。「こんな建物がある」ってだけで、なんかもうむちゃくちゃだった。初めて遭遇した歌舞伎座は、「マジかよの塊」に見えた。晴海通りの向かい側から歌舞伎座をながめ、唖然としたまま激しく興奮していた。
 それからだいたい15年ぐらいが経って、そこらへんの土地と縁を持つことになる。
 ネットの就職サイトを見て面接を申し込んだその会社のアクセスには、最寄駅として「東銀座/築地市場」とあった。
 「東銀座」という駅がいったい銀座のどのあたりのことを指すのか浮かばなかったが、たどりついたらシネパトスや歌舞伎座のあたりだった。いまおもえば、だいぶ駅の出口を間違えていたのだけど、シネパトスらへんから晴海通りに沿って築地のほうへ、面接をうける会社までを歩いた。
 歌舞伎座は相変わらず「バッチリガンギマリ」といった感じのドギツい覚醒感のある異形としてそこに存在していたが、あとはなんだかフツー。銀座っつーわりにフツー。
 舞妓さんがいる居酒屋って言われて行ってみたら、舞妓さんの恰好をしたコンパニオンだったみたいな。銀座が舞妓さんだとしたら、東銀座は舞妓さんの恰好をしたコンパニオンじゃん。というような肩すかし感、それが面接で訪れた東銀座という土地の印象だった。
 このまま晴海通りを行けば築地へ、そして晴海ふ頭へつく。
 中学だか高校だかの頃、デートで都バスに乗っていたら寝過ごして晴海ふ頭にたどりついたことがあった。まだお台場が開拓される前の時代、曇り空の晴海ふ頭の荒涼感といったら、そりゃソートーにキテいて折り返しのバスが来るまで僕はひどく不安だった。
 折り返しのバスに乗ったら15分もしないうちに数寄屋橋についてマリオンが見えて、あんなに荒涼とした土地が銀座の近くにあるということが妙だった。
 面接をうける会社には約束の時間よりだいぶ早く到着した。
 ポストの名札で面接を受ける会社がそのビルで間違いないかを確認し、タバコを吸って、吸って、吸って、それでも時間があまった。隣にはビジネスホテルがあって、ビジネスホテルの脇にはいろんな自販機が入ったミニコンビニがあった。
 ミニコンビニに入ってオロナミンCを買った。その頃、僕には缶コーヒーを飲む習慣がなかった。
 オロナミンCを飲みながら「志望動機」を諳んじた。
 もしこの会社に入ったなら、またこの自販機でオロナミンCを買うのだろうか。
 オロナミンCを飲んでからミニコンビニの表にでて、それでもまだ時間が余っていたので、またタバコを吸った。



スキゾ気質者や統合失調症を経過した人の味わいうる生の喜びの一つは「余裕感の中で憩う」ことであって、その味わいの深さは、あるいは他の気質の人の知りえない種類のものであるかも知れない。私は患者に治療目標の設定を、「あなたが何かをしてもよいが何かをしなければならないとは感じないだけのゆとりをもてるところ、何かになってもよいがならなくてもよいだけのゆとりのあるところまでお互いに努力するということと思うがいかがでしょうか」という意味を話して行なう。「それからはあなたの自由である」とも。(…)

中井久夫 『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収<統合失調症における「焦慮」と「念慮」>ちくま学芸文庫,96頁)



 会社に入って5年目。インターネットのレギュラー番組が終わった。
 とにかく予算がなかったが自由はあった。視聴者数もわずかだったが、自由だけは何せぼう大にあった。
 打ち上げにはプロデューサーからカメラマン、VEさん、キャストや事務所の方々が一同に集い、自由すぎた番組の終わりをにぎやかに祭った。
 このチームの散開はさびしいけどいつか仕事で再会しましょう、また自由なの企画通しましょうね、通してくださいね、みんながそう言って大はしゃぎでお酒を飲んでいた。
 大はしゃぎのその夜、なぜか浅草のその居酒屋には舞妓さんがいた。たいして大きくもない居酒屋にただ一人の舞妓さんが。
 やがて酔っぱらったプロデューサーが、僕の隣に座らせようと舞妓さんの手を引っ張って言う。
「ほらほら、この人この人、この春で終わっちゃった番組をずっとやってくれたの、ほらほらほら、横座ったげて、横」
 舞妓が・・・横に・・・キタッ!
 とりあえず嗅いでおこう。嗅いでるのがバレないように喋っておこう。
「いつから、舞妓さん、やってるんスか?」
「えっとお〜、先週・・・?」
「へえ! じゃあ、新人の舞妓さんだ! どうして舞妓さんになろうとおもったの?」
「うーん、どうして? どうしてだろう? どうしてだろうね?」
たぶん舞妓の修行の過程でこの人の脳ミソは減っていったのだろう。それは誰かが責められることではないはずだ。
「やっぱり出身って京都とかなの?」
「出身? 出身って生まれたところ?」
「そうだね。出身は生まれたところだね」
「あー、大宮、大宮」
「オオミヤ・・・?」
 京都市左京区オオミヤ。京都市右京区オオミヤ。京都市伏見区オオミヤ。京都市東山区オオミヤ。えっと、あと、なんだ? どこにあんだ、そのオオミヤ。
 オオミヤの舞妓は他の人間に聞こえないように僕に耳元でささやいた。
「ぶっちゃけわたし、コンパニオンなの。ただのハケンで来てんだよね、この店。べつに隠さなくてもいいんだけど、なんか今日のお客さん、舞妓だぁ〜〜〜!って大騒ぎするから、引くに引けなくなっちゃって。ひゃひゃひゃ」
 それからは、嗅いでも嗅いでもひたすら安い香水の匂いが感じられるばかりだった。

炸裂(SAKU-RETSU)2


俺はDVDを返さなくてはいけない。






炸裂2
〜one year after the SAKU-RETSU














「お前は、もう、大丈夫なのか?」
久々に会ったお前は、開口一番俺にそう訊いた。
「お前は、もう、大丈夫なのか?」と。
「ぜんぜん大丈夫とも言えるし、ぜんぜん大丈夫じゃないとも言える」
 俺がそう答えると、お前は鼻で笑って、俺を憐れみながら安心もしているようだった。
「お前にゃわからんかもしれないがな」俺はつづけた。
「あれだけの炸裂があったんだ。たった一年で大丈夫だなんてはっきり言えるもんじゃないよ」
 ずぶ濡れのお前は腕を組んで悲しい目をしている。
「この国の連中の多くは、きっとこう思ってるんだ。ぜんぜん大丈夫とも言えるし、まだぜんぜん大丈夫じゃない」
 レントンは「よくわからねえ」という顔をしたままだ。
「じゃあ逆に聞くけど、お前はなんでずぶ濡れのままなんだ?」
「写真だからだよ」
それだけ言ってレントンはいなくなった。
 冬の終わりを迎えた東京は、抜けの悪い天気がつづいている。
 土曜日、雨あがりの深夜、自転車で会社から家に向かった。
 日比谷通りを走っていると、やけに空が「赤い」ことに気がつく。
 どうしてこんなに赤いのか、しばらくわからなかった。
 土曜日の深夜、要するにそれは日付をまたいで3月11日だった。
 日比谷通りの空が赤い。
 やがて御成門の交差点にたどりついて、赤い空の発光源に僕は遭遇する。
 霞んだ空に刺さるような赤いタワーは怪獣みたいだった。


お前は



もう、



大丈夫なのか?







炸裂から一年が経った、噤みの午後。





数枚の写真を撮ってから手をあわせて、大丈夫を祈った。
とても静かな時間が過ぎて、それから、DVDを返しにいった。



***


1.レシート/2.雪の上大崎/3.東京タワー(御成門から)/4.新橋/5.NHKⅠ/6〜8.第二京浜/9.聖橋Ⅰ/10.聖橋Ⅱ/11.聖橋Ⅲ/12.洗濯機裏/13.衣紋掛け/14.ベランダの雪/15〜17.目黒駅構内/18〜20.東京タワー(芝公園から)/21.NHKⅡ/22.NHKⅢ/23.NHKⅣ/24.NHKⅤ/25.NHKⅥ/26.27.部屋/28.ベランダの眺め

追憶のハイウェイ第三京浜

 あの日の朝。たしか8時ぐらいだった。
 2階建てアミューズメント施設の屋上に機材車を停めて、さらに機材車の屋根に三脚を据えて、地上にいる出演者や着ぐるみが「たいそう」をしている様子を俯瞰撮りしていた。
 カメラマンの足場は狭く、少し風が吹けば三脚が揺れる。機材車のてっぺんから地上まで、10メートルはあるだろう。
「揺れで落ちないように気をつけてくださいね」
 僕は言った。たしか8時ぐらいだった。あの日の朝の。
 横浜は異様なまでの快晴だった。遥か前方、青空と都市が接する際には、まるで焦げているかのような「濃い青」が望めた。
 朝からはじまった撮影は順調に進み、昼食をはさんで午後もなお続けられた。
 弁当を食べ終わって、僕は猛烈な眠気に襲われていた。今夜はできれば早めに帰りたい。そして寝たい。それにしてもすごい青空だな今日は。そんなことを考えていた。
 ADが地べたに膝をつき、プロッキーでスケッチブックにカンペを書いている。
「もう少々お待ちくださーい」
 出演者に僕は言った。たぶん2時46分ごろだった。あの日の午後の。
 不意にADの書く文字が蛇行しはじめたのだった。
 ぐにょりぐにょり。ぐにょぐにょぐにょり。
 ぐにょりぐにょり。ぐにょぐにょ、ぐにょぐにょ。ぐにょりぐにょりぐにょり。
 しばらくスケッチブックを眺めてから、蛇行の「からくり」を、僕は解釈する。 
 その時、ADが握るプロッキーは「地面に動かされていた」。
 揺れていた。ゆるく、けだるく、もそーっとした感じで。地面が揺れていた。


 
 冬が苦手だ。それで、3月のこの時季からはっきりと気候が暖かくなるまで果たしてどれぐらいだろうと時間の感覚に目安をたてようと試みるのだけれど、うまくできない。
 去年の3月11日を過ぎてから、春までに流れていた時間があまりにも異常で、うまく参照して感覚に落とし込むことができない。
 東日本大震災直後の日々の記憶は、時系列もランダムに、まるで悪夢を題材にしたコラージュ絵のように心に残っている。
 編集の合間に弁当を食べながら見た、会社のテレビで流れる映像はどれもこれも「奇異」だった。
 自衛隊の大型ヘリコプターが何機か飛んで、「せーの」で爆発した原発に向かって水をバラ撒いていた。
 建物がほとんど水に浸った病院の屋上で、看護師たちが大きく「SOS」とコンクリートに書いて、ヘリコプターで撮影しているテレビカメラに手をふっていた。
 多くの報道番組には、原発の専門家たちがおしなべて出演し「そんなに恐れないで大丈夫です」といったニュアンスのことを繰り返し言っていた。
 絶望が、混沌が、あらゆる「過剰な奇異をはらんだ現実」が、放送されていた。
 流れる映像に「意味」は、あるいは「意味を含む余白」はなかった。それらはすべてが受け入れざるを得ない現実であり、すべてが笑えない冗談のようにも映った。
 ぐにょりぐにょりと、日本が、日本にいる僕が、言葉の追いつかない世界に呑み込まれていった。ぐにょりぐにょりと、時間の感覚がねじまがっていった。次第に、由来の知れない極度の疲れが僕たちを包んだ。
 僕は「被災地にいなかった」のに、「ずっと圧倒されていた」。震災から1週間も過ぎれば、くたくたになっていた。
 およそ365日が経って、その疲れはとれた。現在、「完全なる安心感」もないが、あの頃のような危機感もない。要するに、「馴れた」。
 時間の感覚がねじまがったあの頃の自分の気持ちを、うまく思い出すことができない。たかだか1年ほどしか経っていないのに、あの頃について、リアリティーが持てない。
 あの頃、自分が住んでいる国について多くのことを知った。
 言い換えれば、自分が住んでいる国について、大部分を知らなかった。
 島国であることも、地震が頻繁に起きる地形・地域であることも、普段の電気の多くを原子力に頼っていることも、海が悪魔に化けることも、面白いCMを流している企業が面白くないことも、なんだかもう、わけわかんなくなっちゃうよってぐらい多くのこと、膨大なことを、僕は何も「知らなかった」。
 流れるニュースは、濃度を薄め、絶望を散らし、「過剰」と「奇異」を排除して「それ」を伝えていくだろう。
 あの日あの時、「プロッキーが地面に動かされて」たしかな言葉を見失ったまま、ぐにょりぐにょりと365日が過ぎた。ぐにょりぐにょり。ぐにょりぐにょり。言葉はどこだ。リアリティーはどこだ。ぐにょりぐにょり。まだたくさんどん底の気分の人たちがいるはずなのに。ぐにょりぐにょり。何も知らないあの頃に戻されていく。ぐにょりぐにょり。ぐにょりぐにょりぐにょり。



 横浜の撮影は中断されて、何人かのスタッフと僕の車で東京を目指した。
 おそらく電車が止まっているのか、歩道を歩いている人がけっこういて、道路は渋滞していた。
「どうせ夜には電車も再開されるんでしょ」
 そんなことを車内で誰かが言った。
 横浜からだらだらと車を走らせながら、いつもと違う街の光景に少しはしゃいでいる僕たちがいた。
 僕たちはまだ知らなかった。自宅にたどり着くのが深夜になるということも。途中立ち寄るコンビニにほとんど商品がないということも。
 地震が起きて大部分の高速道路が封鎖されたようだが、第三京浜だけは、まだ走れるという情報が入った。
「おー! あいてるあいてる!」
「すいてるじゃん! ラッキー」
 そんな風に言いながら、第三京浜に乗って上野毛までを順調に駆け抜けた。
 あの日の日暮れ時。第三京浜。それは快適なスピードだった。焦げるような青空はすっかりなくなって、夕日も霞んでいたが、フロントガラスから見える景色は「日常的」だった。
 高速を抜けて早く東京にたどりつきたい。家に帰りたい。僕はそればかりを考えていた。
「運転させちゃってすみません」
「いいですいいです。どうせ同じ方向なんですから」
「車で来てくれててほんと助かりましたよ」
「たまたま今日は車で来てて。ラッキーでしたね」
「ほんとラッキーでしたね」
 あの日、第三京浜を走っている僕は何も知らなかった。その頃、たくさんの人たちが海にのまれていったことも。燃料棒が溶けていたことも。
 僕は何も知らなかった。
 

君の声、僕の耳

 会社からの帰り道、左の眼と右の眼がまるで斜視にでもなったかのようにチグハグした感じをおぼえ、さらに耳に聞こえる音も「池」を介してから聴覚に届くような気持ち悪さがあった。
 そんなことが1月の初めから二週間もつづいた。
 度数を変えたばかりのコンタクトが合っていないのか、とか、以前使っていたイヤホンが壊れて新しいのを買ったのだけどケチって安いのを買ったから耳にあわないのか、とか色々勘ぐったが、どうもそうではなかった。
 「目」や「耳」にきたした変調。それは間違いなく、日々の仕事と、自分の意欲や欲望との「ギャップがもたらしたツケ」だった。
 会社までの行きと帰り、音楽を聞く習慣があるのだが、「耳」が苦手とする声(ボーカル)には傾向があった。
 「耳」が苦手としたのは、「音楽全体の前景にくるような声色のボーカル」だった。そういうトーンのボーカルは好きだから、僕のiPodにはたくさん入っている。
 たとえばボブ・ディランであり、ジョニー・サンダースであり、ジャック・ホワイトであり、高田渡であり、友部正人であり、阿部芙蓉美であり、星野源だ。
 その人たちの声は、音楽の中で「前に現れて」聞こえる。
 鼓膜やこめかみらへんよりも、上のほう、オデコのほうで聞いている感じがする。そうした人たちの歌声には、言葉に霊を宿らせようとする意志を感じる。
 変調をきたした「耳」は、「前景系のボーカル」を特に嫌がるのだった。帰り道でそうしたボーカルを聞いていると、どんどん斜視が進行して、聴覚がかい離していって、このまま聞き続けたら気が狂うかのようだった。
 気が狂いそう。
 「前景系」の中でも、ことさら甲本ヒロトの声は変調を刺激した。
 


 友人と歩いている途中、斉藤和義の『幸福な朝食、退屈な夕食』を口ずさんでいたら「その歌はうたわないほうがいい」と注意された。
 ある作家が、その歌を聞いてから会社に退職届けを提出したのだという。
「そんな歌うたってると、仕事辞めたくなっちゃうよ」
 それから僕はその歌を口ずさむのを止した。



 年が明けてから、「変な覚醒感」につきまとわれている感じがつづいていた。
 たしかに「今年はちゃんと感じよう」と思ったのだ。このままでは感覚が奪われていく。だから「今年はちゃんと感じよう」。そうやって決意して新年を迎えた。
 去年の秋口から感覚が擦り切れていく感じがあって、その摩耗がこのまま進行していくのがすごく恐かった。
 会社のある街に来るのがイヤでイヤで仕方がなく、それでもバックレるわけにはいかない。踏ん張って会社に向かうために、最寄駅についたらイヤホンを耳につっこみ、爆音で歌を再生する。
 再生。すごい言葉だと思う。
 イキんだ出勤時を過ぎると、徒労感が訪れた。音楽が「薬」としてしか作用しない暮らし。ファックオフ。
 身体も危険を察知したのか、少しずつ鋭敏になりすぎた感覚が鈍麻していった。
 いろんなものがどんどん響かなくなっていく。年末にかけて、そんな寂しさが募っていった。その寂しさは、立体的で具体的だった。そうやって年を越した。
 だから今年は「ちゃんと感じよう」と思った。ちゃんと感じないと、ダメだ。
 ちゃんと感じようと思った頃、日本はもう冬のど真ん中にいた。
 冬が苦手だなと思っていたら、いつの間にかどんどん苦手になっている。この冬は楽しめるかもって思っても、結局うつむいて、考えすぎてため息をこらえて春の方角を見失う。
 おととしの冬は、家が火事になって活力を奮い立たせざるをえなくなった。
 去年の冬は、3月に地震が起きて、自分なんかに関心を振り払っている場合ではなくなった。
 冬はいつも大げさだ。大げさにしか、春にたどりつけない。
 


 入社して一年がたつ後輩と飲んだ。
 およそとんでもない忙しさが続いているし、顔色もよくないので多少気をつかって会話をつづけたのだが、本人は仕事を楽しめてるそうで安心した。
 楽しみつづけられたらいいと思う。
 一年ほど仕事をしていて、いろんな人が自分の名前を呼んでくれるようになった、それがうれしいのだと言う。
 すごくうらやましかった。



 耳の向こうの「池」は、1月の終わりにかけて日に日に拡大していくようだった。
 しがらみ。そんな言葉の意味が理解できるようになった。もう、このままここにいても楽しめない。
 秋口から使い込んだイヤホンは正月にぶっ壊れた。新たに買ったイヤホンで音楽を聞くが、どんどん意識がぷかぷかしていく。妙な覚醒感があるが、その心地は悪い。
 「前景系」のボーカルに神経と感覚が乗っ取られそうになる。電車に忘れ物をしそうになる。降りるべき駅を乗り過ごしそうになる。「ここにいる」ことが遠のいていく。
 だが、欲求を果たせない暮らしの充たされない体にとって、そうした声たちだけが「薬」だった。
 気が狂いそう。
 「池」を通って伝わってくる、歌手たちの声が優しすぎる。
 どうしてこんなに優しいのだろう。
 不安になる。冬はまだ長い。春はどっちだろう。春は。春は。春は。春は。



 午前中から夕方にかけてザ・ハイロウズの『月光陽光』を3回聞いたその日の晩、僕は、退社したい意向をボスに伝えた。